一つの本を何度も読むとは

2024年5月7日

気に入った一冊の本を何度も読みます。音楽でも一つの作品にしつこいほど付き合います。何度も読む、何度も聞くということなのですが、小さい頃からそうだったのかというとそんなこともないようで、多分二十歳の頃から始まった癖のようなものだろうと思います。

もしこれを心理学に詳しい人が読んでいたら、専門的な病名が浮かんでくる様なものかもしれません。

最初のきっかけとなったのはモーツァルトの伝記です。モーツァルトの音楽が好きでしたから彼の人となりをもっと知りたいと手当たり次第モーツァルトについて書かれているものを読みました。作品解説だけでなく伝記にも目を通しました。同じ人物の伝記を何種類も読むという初めての体験でした。

興味深かったのは作者によってモーツァルトのイメージが違うことでした。はじめは少し面食らいましたが、そのことに気付いてからは、伝記というのは半分は史実や生い立ちから取ってこられている訳ですが、残りの半分は、もしかするとそれ以上が伝記作者の創作だと言うことに気づいたのです。一見客観的に見えても思い込みのようなものではないかと思ったりもしました。

最初は各人によって違うことが気になったものですが、そのうち違うことが気にならなくなって来るのです。そして字面の向こうにぼんやりとモーツァルトのイメージが浮かんでくるのです。もちろん主観的なものです。私は霊能力などというものは持ち合わせていませんから、それらしきものは一切見えないのですが、心象として、イメージとして感じるものがあったと言うことです。残されている肖像画に似ていることもありました。

音楽も基本的には同じで作品の向こうに別の手ごたえを感じるようになります。親しい友達の様な感触で大切にしたいものになるのです。そこまでくると、この作品を知っているとか、この作品が好きだというレベルのものではなくなっていて、毎日使っている大好きなお茶碗の様なごくごく日常的なものになっているのです。

アンサンブルの味

2024年5月6日

先日お亡くなりになった小澤征爾さんが中国の上海に招待されて、上海のオーケストラを指揮された時のことを、国文学者のお兄さんとの対談の中で話していたのですが、オーケストラの指揮台に立ってびっくりしたのは、全然音がまとまらないということだったそうです。あちこちからバラバラに音が聞こえてくるのだそうです。

中国は当時も一人っ子政策が敷かれておりました。みんなが一人っ子という社会状況を考えただけでもゾッとします。しかも音楽教育というのは大概、中国に限らずスパルタで英才教育です。一人一人を見れば技術的に訓練されているのに、いざオーケストラとして一つの作品を演奏する段になると、一人一人がバラバラでオーケストラとしてのまとまりが感じられなかったのだそうです。それはなんと言ったらいいのか言葉に詰まってしまうほど奇妙な音楽体験だったということです。

このことは中国人のオーケストラに限ったことではないと、私の音楽経験は言います。例えばピアノ三重奏などを聞いていると、よく経験するのは、ピアノとヴァイオリンとチェロの三人でグループを組んで活動している人たちの演奏と、有名なピアニストとヴァイオリニストとチェリストに声がけして著名な音楽祭などのために臨時のグループを結成したものとの演奏の違いです。

三人のソリストによって作られた即席グループの演奏は、一人一人が実力者の集まりですから、上手ですし、それなりに聞き応えがあるのですが、バラバラな印象を持つこともあります。時々あるというよりも大抵アンバランスなのです。もちろんアンサンブルに慣れた人かそうでないかの違いは大きいですが。

ピアニストの多くは普段ソリストとして一人で演奏することに慣れています。したがって他の演奏家と合わせるタイミングが見つけられないようで、歌やヴァイオリンなどの伴奏の時には相手の音楽が聞こえてこないのではないかと思うようなものがあります。共同作業が成立しないのです。

私がかつて歌を歌っていた時のことです。色々な伴奏者とご一緒しましたが、伴奏という仕事が特別なものだとつくづく感じたものです。幸い私の場合は経験豊かな方達が伴奏をしてくださいましたから、困ったことはなかったのですが、同じ曲でもタイミングや音の感じ方などに違いがあるのが面白く、それを楽しんでいました。

リズム感というのは、なかなか変えられられないもののようで、人それぞれに随分違います。他の人と合わせる時にはテンポと同様に意外と曲者です。これは音楽に限ったことではなく、同じプロジェクトで何人かと組んで仕事をしてみるとよくわかります。

特にテンポは悩みの種です。必ず他の人とテンポが合わせられない人というのがいるんです。自分のテンポを主張したら絶対にうまくゆきません。相手に合わせるという姿勢が要求されます。音楽のアンサンブルの時には、ただ合わせるだけでもダメで相手と一つになろうとする働きかけがないとまとまらないのです。

人生は音楽によく似ています。音楽の基本は聞くことだとつくづく思う時です。人生もです。いくら言葉で説明しても合わないものは合わないのです。頭で、理屈でわかるなんて大したことではないのです。生理的に合わないのです。

きっとこんなことがアンサンブルを組む時にはいつも起きていて、いつも同じ人とグループを組んで演奏活動をしている場合は、息も合ってきて、阿吽の呼吸の領域で演奏できるのでしょうが、臨時のグループにそれは要求できないことです。きっとそこはそれぞれの知名度でカバーしているようです。

 

小澤征爾さんが指揮台に立って指揮棒を振った時の上海のオーケストラの音を聞いてみたかったです。音楽であって音楽でないと言ったものだったのではないかと想像します。しかしこれは一人っ子政策によるものなのか、歴史的にみて感じる中国独特のものなのかはわかりません。いつか放送された上海オーケストラの演奏を聴きましたが、味付けができていない料理のような印象を持ちました。音楽というものは相手を聞くことがないと、味が生まれないということのようです。

日本では利き酒という仕事がありますが、これも「きく」ことなので、音楽で聴くことがうまくできていないと、そこからいい味か生まれないというのは、この辺と関係しているのかもしれません。

いいアンサンブルの演奏は確かに美味しいです。

 

ピアノは俗物の楽器

2024年5月4日

シュタイナーはピアノを俗物の楽器と言っているんです。結構激しい言い方ですからピアノが嫌いだったのかと思わせるようないいぷっりですが、そういうこととも違う様なのです。好きだったのかというと、自信はありませんが、特別好きというほどでもなかったのでしょうが、まあ好きだった様に思います。しかし激しい言い方です。ピアノを弾かれる方をがっかりさせるに十分な迫力です。

ピアノといっていますが、楽器としてのピアノではなく、私は鍵盤楽器全般のことだと解釈しています。したがってパイプオルガンもチェンバロもハンマーフリューゲルも俗物扱いです。バイブオルガンなどは教会に欠かせない楽器なのにシュタイナーからは容赦なく俗物です。

この楽器は霊界に原型がないのです。ということは一から十まで地上的な要求を満たすためにある楽器と解釈出来ます。ピアノは普通に言われるところに従えば楽器の王様ですから、音楽をする楽器の中で一番優れていると考えられているのでしょう。確かに交響曲などもピアノに編曲されて演奏できちゃう訳ですから、有能な楽器であることは間違いないのでしょうが、シュタイナーはそこが気に入らなかったのではないかと推測します。何でもできる、万能の楽器なんかは必要ないと思っていたのでしょう。

 

楽器というのはどれもそれぞれに難しいものです。ピアノという楽器はその中でも難易度の高い楽器です。私がお世話になったクニーリム博士は、「ピアノを上手に弾く人は沢山いるけど、ピアノで音楽が作れる人は指で数えられるほどしかいない」というのが口癖でした。もちろんクニーリム博士もピアノが大好きでした。

ピアノに難癖をつける人に限ってピアノが大好きというところが面白いです。

私もピアノ弾き込める人は数えるほどだと思っています。ヴァイオリン属の楽器の難しさとは違う難しさです。ピアノのテクニックに溺れて弾かされているだけでは、ピアノを弾いているということにはならないのです。ピアノの音を音楽の音にまで持って行ける人が少ないのです。ピアノの音のように死んだ音を生き物に復活させるところが選ばれた人にしかできないのピアノなのです。そういう人に弾かれたピアノはイキイキしていて音が全然違います。音が深いですし、透明です。

音楽が一番苦手としているのは、上手に弾くというところです。特にピアノの場合は顕著です。これほど嫌味なものはないと思っています。個性的であろうとすればするほど音楽から遠ざがってしまいます。ピアノが悪臭を放ちます。

ピアノの持つ俗性は演奏者の人格で掬い上げなければならないのです。