自分らしく

2025年2月20日

生きているというのは、いろいろなレベルが含まれています。事故や病気で意識を失って。植物人間のような状態もあれば、記憶がなくなっている人もいます。アルツハイマーなどです。心が病んでいる人、精神が病んでいる人もいます。

そういう状況にない人たちも、自分というものと周囲の状況と格闘して生きていますから、生きるというのはどのような状況にあろうとも大変なものです。

 

私たちは自分というものをコントロールして生きています。実はこの自分をコントロールしているのも自分というものなのですから、複座地なものです。自分には二つの異なった働きがあるということです。よく分裂しないで生きていると思います。

自分をイメージするということをいろいろなときにやっています。洋服を買うときに、似合うかどうかはイメージしているのです。あるいは今回は少し派手なものを買ってみようかというときにも自分をイメージしながら作戦をねって洋服を決めているのです。

あるい人生設計をするときもやはり自分をイメージしています。一生懸命勉強していい大学にゆくか、手に職をつけてものづくりの人生を楽しむか、いずれにしろイメージがないと、太平洋に丸太に捕まって浮いているようなものですらか、漂流です。木の葉が風に舞うようなものです。野垂れ死んでしまいます。

自分らしくというのが最近ではよく言われます。昔は、少なくとも戦前は自分らしくなんていうことはほとんどタブーでした。自分を向かってくる状況に逆らわずに合わせたのです。我慢、忍耐というのが目指すところで、自分らしくなんて口が曲がっても言えなかったのです。そんなこと言う人間は変人扱いされたに違いありません。どんな状況にでも臨機応変に合わせられるということも言われたのでしょうが、多くの人はそんな余裕もなく、がむしゃらに、状況をこなして生きていたのだと思います。

自分らしくと言える時代ですが、こんな話もあります。友人で大学で教鞭をとっているのが、就職活動をしている学生と話していてこんなことを言われたのだそうです。「先生私にふさわしい仕事につきたいのですが、どこか紹介しいてただけませんか」友人は顔には出さなかったけれど内心度肝を抜かれたと言っていました。「甘えるな。なんでも自分に向かってやってくる状況をこなすことで、若いうちは育つのだ」、と言ってやったそうです。

自分らしいものを書こうと思ってもなかなか書けないものです。今一番悩んでいます。

一番障害になるのは、自分が自分というものをイメージしていて、それにふさわしいのを書こうとしてしまうことです。自分で自分が作った鋳型に嵌め込もうとしてしまうのです。そいうものは次の日読み返してみると、「またか」という呆れた感情が込み上げてくるのです。

自分らしいというのはも究極的には、自分でイメージしたものにとらわれないで、自分がだらしなく居られるところにのんびり居るということのようです。リラックスという人もいるかもしれませんが、リラックスもやはりどこかでイメージされているようにも思います。

居心地のいい場所と時間を作ること、これが最良の道ではないかと考えます。

何を書いたらいいのか

2025年2月19日

四方山話である。

何か書きたいとまたコンピューターのキーボードに指を乗せようとしている。実は何も思いつかないのだ。外は一昨日の雪が残って今日もしっかりと寒い。今朝は素晴らしい日の出だった。陽が登る前の赤みを帯びた空のなかに、温かみのあるまん丸の真っ赤だった。登ってくる太陽が心に焼き付いていたので、その時の色鮮やかな風景を書いてもいいと思うのだが、しばらく書いていると、つまらないからやめろ、と誰かだか、何かだかが言ってくる。いつもそうで、やめろで終わってしまう。つまらなくてもいいから続けろとは聞いたことがない。書いているときは面白いとかつまらないとか頭の中にはない。書くためのエネルギーが体の中を駆け巡り指にたどり着く。評価されなくても全く構わない。何かが書きたい。そうだよく古い汽車のことが書きたいと時々思う。私はそういう汽車に乗ったことがないからだろう。蒸気機関車という豪華なものはもちろんなかった。父は貧しく汽車に乗せて旅に連れて行ってくれなかった。汽車の旅行は憧れていた。汽車での旅は夢だった。

ある日福島から会津若松に向かう電車に乗った。終着駅は新潟。四時間半以上かかる長旅になる。新幹線で行けば三時間ほど。大人になってからのことで、自分で切符を買った。行き先を窓口で言って、お金を払って、お釣りをもらって改札に向かった。夢がはち切れんばかりで、プラットホームを歩く足取りは急足だった。座席につくと間も無く電車は出発した。どんどん都会を離れて山の方に向かった。ゴトゴトと音を立てて走った。会津若松を過ぎて気がつくとどんどん山の中に向かっていた。乗っている人は一駅ごとに少なくなって、ある時から私と年配の女性だけになっていた。空っぽな車両には別の味わいがあった。孤独な感じはしなかった。渓谷を抜ける時、窓から飛び込んでくる風景に度肝を抜かした。秋が美しかった。目を大きく目を開けて移ろう色づいた景色を貪っていた。渓流を走っているときは川に滑り落ちそうだった。僅かの距離しか川から離れていない線路が夢を遠くまで運んでいた。こんな手付かずの深い自然があって、そこを電車がゴトンゴトンと私を乗せて走っている。寂しかった車両に変化が起こった。停車する駅ごとに人の数が増えてゆく。乗ってくる人たちは驚くことに降りていった人たちと言葉も違うし顔も違う。着ている服も違う気がした。ずっと同じ車両なのに何もかもが変わってしまった。魔法にかかったようだった。外の景色は、自然からだんだん山らしさがなくなって、木の数も減っていた。窓の景色は集落の屋根の風景に変わり、家の数がどんどん増えていった。制服姿の六七人の少年たちと同じ数の少女たちが乗って来ると。車両は若い熱気がこもる。終点が近づく頃には太陽も随分傾いて、夕焼けの色鮮やかな空が輝いている。今日の目的地である。私の電車は一目散にここに向かってきたのだ。新潟という車内のアナウンスが聞こえてドアが開くと、一斉に乗客たちは外に出ていった。電車の旅は終わった。トボトボと人混みに混じって駅構内を歩き改札に向かった。改札で車掌さんに切符を渡すと、車掌さんが透明な風船ともシャボン玉ともつかないものをくれた。よく見るとその中に今まで見てきたもののが綺麗にみんな収まっていた。

ブラームスの間奏曲op117-1

2025年2月19日

この曲は既に「光のなみだ」に録音していますので、私のCDを持っていらっしゃる方はそれを聴きながら読んでみてください。

私の得意でないブラームスということで先日ブログに書いたのですが、自分の録音を聞いてみると、意外と聞けて、そんなに苦手扱いする必要はないのではないかと思いました。ライアーでこの曲が弾けるなんて楽しいと思います。ただピアノが得意な複雑な和音は省かれていますし、鍵盤とは違い弦のタッチに気をつけないといけないところがあり、難儀していました。

自分の演奏というのは、何度も言うようですが簡単に聞けるものではないです。講演の録音も聞きたくはないものですが、音楽の録音はもしかするとそれ以上かもしれません。聞いていると恥ずかしくて、穴があったら入りたいくらいになります。この曲に関しては不思議で、途中で機械を止めることはなく最後まで聞けましたから、例外です。

 

ブラームスの音楽は私が今まで録音した音楽とは違うものでした。それまでに録音した音楽は基本的には音楽が踊っているというのか、音楽そのものが動きたくなるものでした。ブラームスはピタッと止まってしまいます。これはピアノの楽譜からライアーの楽譜にする作業の時にも感じていたものでしたが、今回久しぶりに聴いていて、録音当時を思い出し、馴染むのに時間がかかったのがこの動かない部分だったことを思い出しました。多分そのため曲がCDの最後になったのだと思います。

何度も言うようですが、私向きの曲ではないので、何度も練習で弾いていると、血液の流れが止まってしまうように感じ、その時は弾くのをやめまたこともありました。

これが私のブラームスです。私の友人の中にはブラームスが大好きな人が何人かいるので何度も一緒に聴くことがありました。不思議とブラームスが好きな人と聞いていると、一緒に音楽の中に入れるものなのです。その時だけはとても近い音楽に感じていました。これと同じ体験はジャズでもしました。妻の兄が大のジャスファンで、よく誘われてコンサートを一緒したのですが、一人で聞いている時には感じない「ノリ」を感じたりするのが不思議でした。だから好きになるかというとそんなことはないのですが、好きな人と一緒というのは不思議な吸引力があるものです。余談ですが、新しい車を買う時には、必ず車が大好きという友人に一緒してもらうのです。いい車を引っ張ってくるような気がしていました。

ブラームスはロマン派というジャンルに属するのですが、私は未だ何がロマン派なのかがわからないでいます。ロマン派の作曲家というとシューマンや、ショパンがいます。シューベルトもそこに組み入れられることがありますが、シューベルトはロマン派とは違うと思っています。ワーグナーも時代的には重複していますが、ロマン派ではありません。ブラームスは間違いなくロマン派の音楽家です。では何が彼をロマン派と呼ばせるのでしょう。ロマンチックだからでしょうか。そうではないでしょう。きっと音楽がとても主観的だということのようです。自分が中心という感じです。それまでの音楽は誰かのために書かれたものだったのです。それがロマン派では自分のためにというスタンスになったのです。

オタクという言い方があります。自分に興味のあることだけに長けている人を指していうのです。オタク同士がお互いを名前で呼ばずに「オタク」と読んだことに由来しているようです。今日のオタクとは違いますが、ロマン派はオタクの走りかもしれません。ロマン派から音楽は自己中になったような気がします。ロマン派以降の音楽はその自己中を打開するための努力のような気がします。音楽の客観性に憧れるのでしょうが、血の通わない音楽がそこから生まれたような気がします。芸術に客観はないからです。

芸術の本質は作品ではなくプロセスです。この考えは将来もっと評価されるものになると思います。形になる以前の、未だ形をとらないもの、それが芸術の本質です。

そこに視点が行けば区分けは芸術になくてもいいということになります。

子どものどろんこ遊びが、誤解しないでいただきたいのですが、一番芸術的と言えるのからです。「何流のどろんこ遊び」なんてナンセンスです。

ブラームスを書くつもりがとんでもないところに来てしまいました。