楽譜の向こう

2025年8月31日

音楽と楽譜はまるで対をなすもののように言われていますが、楽譜を読めなくても音楽活動をしている人はたくさんいます。楽譜は音楽の絶対条件ではないということは知っておく必要があります。むしろ楽譜に振り回されているなんてこともあるのです。

ことクラシック音楽に関しては楽譜は欠かせないものです。この点がクラシック音楽の大きな特徴です。まずは楽譜の習得から始めます。しばらくすると正確に楽譜が読めるような訓練になります。この時点では楽譜は有益なもの、便宜上のものなのかもしれません。あるいは作品を後世に残すための手段としても楽譜は有効なものですが、例外ももちろんあります。楽譜で音楽を伝えなかった日本の雅楽はマンツーマンで先人から直接の手ほどきを得て一千年の年月を伝えてきているので、楽譜は後世に伝える唯一の手段ではないのです。むしろ楽譜は時代によって解釈が異なったりするので、正確に伝えてはいないと考えることもできます。

楽譜を見ながら練習して、楽譜がなくても演奏できるほど弾きこむと、今度は楽譜のない世界に入ります。ただ脳裏には楽譜が消え隠れしている場合もありますから、全くなくなったというわけではありません。それに指遣いで覚えていることも多いです。ともあれ楽譜離れという時期もあるのです。

楽譜なしで、つまり暗譜で弾けるようになると、楽譜にしがみついていた時とは音楽が変わります。自分流の解釈からの、自分らしさという誘惑が大きくなります。自分が解釈した演奏というものですが、実はこれが演奏の世界では大変な課題を持った落とし穴なのです。

暗譜で弾けるようになって初めて音楽が自分のものになったと言えるのかもしれませんが、そこには驕りのようなものが潜んでいる場合もあります。そうなってしまっては音楽は元も子もなくなってしまうのです。自惚れたエゴの塊のようなつまらない演奏がそこで待ち受けています。

イギリス人で、ピアノ伴奏の分野で世界中から高く評価されたジェラルド・ムーアは、あるコンサートでシューベルトの野薔薇の伴奏を楽譜を見ながら弾きました。この伴奏はピアノを初めて一年も練習すれば誰でも弾けるようになるくらい簡単なものです。彼はアンコールで歌う歌手と一緒に楽譜を持って舞台に登場したのです。そして楽譜を広げて楽譜を見ながら伴奏したのです。次の日の新聞評には、「ムーア氏は未だに野薔薇の伴奏程度のものも暗部していないのか」と揶揄するような文章が載りました。晩年にムーア氏が自らのエッセイでこのことに触れ「私はシューベルトの精神に触れながら演奏するために楽譜が必要なのです」と答えていました。

宗教の儀式では、その宗教の聖典を読むということがセレモニーの中でよくあります。どの宗教にも共通しているのは、その聖典を目の前にして文字を読みます。暗唱ではなくテキストを前にして文字を読むのです。聖職者なら暗記しているはずのものでも、聖書の文字を読み上げるのです。理由はテキストと読み手の間に邪神、邪心が迷い込まないためだと言われています。

ムーアが楽譜を見ながらシューベルトの精神に近づこうとしている姿をどのように理解したらいいのか考えるのですが、彼の在り方は宗教の儀式と同じことだと言えるように思うのです。演奏しているときに、邪心、自分の奢りのようなものが入り込まないように、どんな簡単なものでも楽譜を目の前にすることで、却って無心になれるということなのかもしれません。

楽譜を読めるように練習し、だんだんと楽譜に忠実に演奏できるようになり、その次に暗譜で弾けるほどに作品を自分のものにする。実はそれで終わりではなく、その次があったのです。また楽譜に戻ってきて、今度は楽譜を通して楽譜の向こうに控えている作曲家の精神に触れながら弾く。

楽譜というのは暗譜するまでの練習のためのものというだけのものではないのです。楽譜を覚え始めた時と暗譜して楽譜など必要でなくなってから再び楽譜に戻ってくる。誰もが通り流れですが、初めての楽譜と再び戻ってきた時の楽譜とは同じものではないのです。再び戻ってきて楽譜を見ている時というのは楽譜を通して得られるインスピレーションを享受しているのだと思います。

楽譜というのは楽譜以上のものを秘めているということのようです。楽譜以上がわかるかどうかがいい演奏かどうかの分かれ目なのかもしれません。

 

無明のことについて

2025年8月30日

無明とは仏教的な考えの中で光が届いていない所のことを意味します。遍く照らしている光でも届いていない所がありそこは自ずと暗くなってしまうということです。仏教では悪の存在を言わないので、善と悪を対立させるという考え方がないと理解しています。善悪の対立はペルシャの時代のゾロアスター教、拝火教から生まれたと言われ、それ以来善と悪が対立したり、善が悪を退治するようになったのです。

悪の存在を認めるのではなく、ただ光が届いていないと考える所に仏教の大きな魅力を感じます。よくないことが起きてしまうというのはそこに光が届いていないからだと見ているだけなのです。悪と決めつけるのではなく光が足りていないというわけで、素晴らしい考え方だと思っています。善と悪と区別をすることは、想像するにイデオロギーの始まりなのかもしれません。無明は流動的ですがイデオロギーは固まってしまって変化しようがないものです。イデオロギーの世界はこれ固まった世界になってしまうのはそういうことなのかもしれません。

心の中の喜びは光そのものです。心が光に満ちていれば喜びに満ちているとみるのです。心の中の嫉妬や、恨みというのはそこに光が当たっていないから起こることなので、暗く喜びが足りないということなのです。現代病の鬱病も無明的に見たらいいのかもしれません。心に光が届いてないので、喜びが少ないようです。

足るを知るということはなんでも与えられて満足しているということとは違います。貧しくても足るを知るという気持ちになれるものだからです。ガツガツしている、もっともっとの状態とは間反対です。私たちの時代は欲望がまっしぐら突っ走っていますから、いつまで経っても、足りていないと感じて生きているような気がします。これはまさに無明ということそのものなのです。

音楽にさり気なく耳を傾けているときに、心が満たされることがあります。それは決まって、今聴いている演奏が光に満ちている的でした。技巧だけで突出したり、思い込みで固めてしまい、挙句のはてに「凄いだろう」と自惚れている演奏はガツガツした演奏で疲れます。日狩りが届いていない貧しい演奏だからなのだと思います。技巧的にすぐれて上手というのが今日の演奏家たちの常識になっていますが、そこに固執してしまうと、ガツガツが表にでしまい、聞き手の心を満たすことができないくらい冷たい演奏になってしまいます。光が足りていないのです。音楽が喜びで満たされていないというのは、音楽というよりも雑音に使い物のようです。それは致命的なものだと考えます。

品という字は、「ひん」と読むか「しな」と読むかで随分違ったものになってしまいます。気品という世界を感じるか、品定めや品評会のような世界に惹かれるかと、はっきりと分かれてしまいます。気品を生み出しているのは足るを知るが息づいている時です。満足感や喜びから生まれるもので、品定めは欲がらみのガツガツからのことが多いと思います。どの言語にも「ひん」にあたるものがあるのは嬉しいことです。ドイツ語ではWürde(ヴュルデ)となると思います。人間の尊厳さということです。人間を尊厳の立場から見られるというのはなんと幸せなことでしょう。

難しい話だったので、筋がまとまらず取り止めのない文章になってしまいました。

 

スイスの気配り

2025年8月27日

スイスには日本の大手新聞のようなものはありません。ほとんどが地方色の強いローカルな新聞が中心となっているのですがその中でもチューリッヒから出ている、Neu Züricher Zeitung、新チューリッヒ新聞は発行部数から見て、スイスの大手新聞と言える唯一の新聞です。そこで特派員として日本に滞在したフースター家族と私は親しくしています。

ご主人のトーマスと飛行機の中で隣り合わせたのが縁でした。隣に座った人がスイス人というのは彼が偶然にパスポートを整理していたので分かったのですが、スイスはドイツ語とフランス語とイタリア語とレトローマン語が国語として話されている国ですから、お隣のスイス人が何語を話すのかはその時点ではわからなかったので、初めの挨拶はとりあえず英語でして、その後「スイスの方ですよね。失礼ですが何語を話されるのですか」と尋ねました。帰ってきたのは「ドイツ語です」ということで、英語が得意でないので、それからはドイツ語で会話がスムースになったのでした。彼の専門分野は経済ということでした。当時はバブルが崩壊して日本から少しづつ経済大国の面影が薄れ始めている時でしたが、まだ円のレートは強く、物価も高く、彼がいうには「スイスより高い国に初めてきました」ということでした。

日本に行くと必ず一度は会っていたのですが、その度に奥さんのパトリチアが「日本はスイスだ」としきりにいうのです。一年目より二年目、さらに三年目とその印象はどんどん強くなって行くようでした。街の清潔さは特に強烈な印象だったようで「スイス以外ではお目にかかれない清潔さ」がとても気に入っているようでした。飛行場も駅もデパートも、とにかく人の集まるところはどこへ行ってもゴミがなく綺麗で、スイス以外にこんな国があることを知らなかったということでした。私の印象からも、ヨーロッパはどこへ行っても犬の糞とゴミで散らかっているのが当たり前ですから、そんな中でスイスは例外なのです。

スイスは「アルプスの少女ハイジ」の印象を大切にしています。印象とは別にスイスを実際に支えているのは金融、特に銀行で、匿名で預金できるため世界の大富豪がスイスの銀行に匿名口座を開設しています。そうしたお金が集まり、そこから預かり料として膨大な利益をえていますから、非常に裕福な国なのです。収入はドイツのほぼ二倍ほどです。日本の三倍くらいかもしれません。ただスイスが銀行で金儲けをしているというイメージは必ずしも国にとっていいものではなく、その守銭奴的イメージをを払拭するために「アルプスの少女ハイジ」からのイメージは、自然豊かな風光明媚な国というイメージを醸し出すため、物欲から離れた清潔なイメージ作りのためには非常に役に立っていのです。そのために国は相当の支援を酪農農家に給付して酪農を奨励しています。

話をスイスと日本の共通性に戻すと、気の配り方に触れなければならないと思います。日本はしつこいほど「おもてなし」を合言葉にしていますが、スイスにも別の意味での思いやりがあり、他の国からくるとスイス人は特別だという印象を持ちます。

スイス製、時計やカメラといった精密機械は相当高いクオリティーがありますから、値段も張ります。しかしスイス製は伝統に支えられているため信頼度が高く、他の国の追随を許さないのです。物作りのクオリティーは日本とスイスは双璧で品質の高さを競い合っています。ただスイスには伝統がある分値段が高く見積もられるところが、後から追いついた日本に水を空ける要因です。

先日子どもの家族とスイスに行っていました。就学以前の孫を連れていたので孫を遊ばせなければならず、公園のようなところではなく山の中の遊び場にみんなで出かけることにしました。そこはバーベキューができるようにひを使える場所が設けられていました。前日に降った大雨で周りはびしょ濡れでした。そのことは予め覚悟していたので、薪を持参して行ったのですが、スイスらしいサプライズなおもてなしに迎えられたのでした。火を使える場所の近くには小さな小屋があって、みるとそこには雨に濡れないように薪が積み重ねられているのです。さらに紙まで周到に用意されているのには、「さすがスイスむとびっくりしました。もちろん薪は無料です。管理しているのは自治体ですから、係の人が見回っているのでしょう。小屋の薪が空になれば補充されるということです。

用意する方の意識の高さもですが、利用者たちのモラル感覚も、そうした場所を維持するために大きく作用していると思います。使った後を片付ける習慣がスイスにもあって、日本でいう「発つ鳥後を濁さず」というスタイルがスイスでは日常に染み渡っています。しかし最近は観光客の質が低下しているということはよく耳にします。ホテルの備品が紛失するという今まではなかったことが続出しているのだそうで、特定の国は「お断り」という方針も打ち出されているということです。

ところでスイスにはいろいろな側面があって、それもスイスらしいと思わせるものです。路上駐車は日本では馴染みのないものですが、この路上駐車を料金制にしたのはスイス脱たのですが。また食品に賞味期限というシステムを導入したのもスイスだったのです。それによって個人経営のちいさな店舗がき巨大スーパーに飲み込まれてしまったのです。賞味期限というのは衛生上のことが出発点ではなく経営的な下心があって生まれたものだつたのです。

また近い日に日本円のレートが良くなったら、ぜひスイスに旅行してみてください。スイスはいいとこ一度はおいでと呼んでいると思います。きっと行かれた方はスイスが好きになること請け合いです。スイスのおもてなしも是非堪能してみてください。

今日はスイスの宣伝でした。もちろんスイスからは一銭ももらっていません。