人間の体は神のため神殿

2025年3月26日

ノヴァーリスと言う詩人がドイツにいました。ノヴァーリスは十九世紀にドイツで活躍したロマン派の詩人ということになっています。ドイツの神秘主義と呼ばれるものの一翼を担っているとみなされることもあるほど、神秘的な内容の詩もあります。ところが、知名度の高い人ではないので、知る人ぞ知ると言う隠れた詩人で、ドイツ人も知らない人が多いのです。若くして亡くなっているので作品の数は少ないのですが、不思議な存在感のある人でその後の多くの文学者たちからはとても高く評価されていて「私はノヴァーリスと同じことをいっているにすぎない」と告白する文学者は後を絶たないです。

これほどの影響力を持っているのですが、名作とか偉大な作品とか言うものから彼が後世にいい伝えられているのではなく、驚くほどの純粋さゆえにだと私は思っています。「私も彼と同じくらい純粋に作品を書いている」と後世の文学者は、自らをノヴァーリスになぞらえるのかも知れません。私は彼をロマン派詩人とか、神秘主義的詩人とかいうよりも、純粋詩人と言いたい気持ちです。超純粋なのです。極々薄いガラスでできた高級なグラスのコップのようなもので、俗な有り余る力で思いっきり握るとあまりに脆いですからすぐに壊れてしまうのです。そんな感じの稀な純粋さです。

ノヴァーリスは箴言の類の短くまとめた言葉が比較的知られています。その中のひとつに「人間の肉体は神様のための神殿である」というのがあって、度々引用されているので聞いたことがあると言う方もいるのではないかと思います。その言葉は読んだ時から心に残るものでした。とても味謎めいているので、なんでそのように言えるのかをずっと考え続けていました。少し前に「人間はみんな自身がパワースポットなのだ」とノヴァーリスの言葉を言い換えてみたのです。

最近はパワースポットにたいへん関心があるようで、全国各地にそう言われている場所が幾つも存在します。日本だけでの流行ではなく世界的に広がっているもののようです。私は興味がないので、どこに何というパワースポットがあるのかは詳しくないのですが、多くの人がそこに足を運んでいるようで、観光の名所にすらなっているようです。

何を以ってパワースポットというのかの基準など定めようがないので無いと思うので、信じる人にとってのパワースポットになると思って付き合っています。昔からそう言われているところもあれば、最近になってある霊能者にお告げが降りてそこがパワースポットになるというケースもあるようです。現代は物質的な世界観が支配しているので無宗教の時代と言われています。その中に現れたのがスピリチュアルと呼ばれている霊の世界を伝える人たちです。そしてその言葉を信じる人たちです。パワースポットはその人たちの信仰対象となったのだと思います。その吸引力が多くの人を惹きつけ、引きつけているのではないかと思っています。

このパワースポットと先ほどのノヴァーリスの言葉は、よくよく吟味すると全く違うことを言っているように思えるのです。ノヴァーリスの言葉は、人間一人一人がパワースポットだということになりそうです。つまり私たちは一人ひとりが歩くパワースポットということです。どこにいてもパワースポットなのですから外にパワースポットと言われている所を探し、わざわざ出向いて行く必要がないということになります。個性が大事とか、人格形成とか、自分探しなどいう割には外に自分の助けを求めているのでは本末転倒のような気がするのです。

もっと自分を信じてもいいのではないか、自分に自信を持ってもいいのではないか、ノヴァーリスの言葉を噛み締めるたびにどうしてもそう思ってしまうのです。

ちなみに、日本語で人間は「ひと」です。「ひ」は霊のことで、「と」は泊まっているということですから、私たちは人である限り、霊の泊まっているところなのです。まさに歩くパワースポットです。

 

感覚のこと その二。シュタイナの十覚論。

2025年3月24日

ここではシュタイナーが扱う触覚と自我感覚を見てみようと思います。

この二つの感覚は非常に親近性のあるものです。この二つを結びつけているのは、人間存在です。自分がいる、相手がいることを感じる感覚ですから表と裏と言ってもいい位のもので、対をなすものです。

触覚は自分の周囲にあるものに触れた時に皮膚への刺激を通して働いている感覚です。目の不自由な人が部屋の中を移動しようとする時、手探りで自分の周りに物があるかどうかを探ります。目の見える人も部屋を真っ暗にするか目マスクをして視覚を遮断するすると追体験できます。手や体に何かぶつかるとなればそこに物があると言うことです(皮膚がものに触れたところから神経系にどう運ばれるのかはここでは省略します)。

物がここにあることをわからせてくれるのが触覚の大きな働きです。触覚は手触りとか感触ということと混同されています。圧がかかることも触覚と理解されています。展示なども触覚で読んでいるとされています。ところが、ものの表面の感触は触覚も働いていますが別の感覚とのコラボです。つまり純粋に触覚が何をするのかといえば、そこに物があるということを知らせることです。と同時に、わかりにくいかもしれませんが、自分がここにいると知らしめているのです。感覚的観点から自分を感じられるのは、触覚によるのです。

触覚は実際には色々なものとコラボしています。先ほどの圧迫してくるもの、ものの表面の感触、水や空気の温度、嗅覚、そして視覚までもが、ものに触れると言うことから発生している感覚なので、全ての感覚が触覚的な感覚と言っても過言ではないのです。私たちが物質環境にいる限り触覚が大活躍していて、触覚を基本中の基本の感覚と言えるるのです。結論的に言うと、触覚を純粋に取り出して考察すると言うのは、他の感覚との結びつきがあるため難しいもので、そのためかえってわかりにくくなってしまうものなのでシュタイナーは初めて感覚についての論文を表したときに、触覚をあえて外したのです。

ここを少し補いますと、シュタイナーの感覚への発言では十二の感覚が扱われていることは知られています。ところがシュタイナーが1910年に著した、「断片的人智学」の中で感覚のことに一章を費やしているのですが、そこでは十の感覚しか扱われていなかったのです。とは言っても基本的には十二の感覚とほぼ同じで、三つと四つのカテゴリを組み合わせたもので、ただ二つの感覚を始めの段階では扱っていなかったというだけのことで、二つの感覚論があるということではありません。なぜ初めて感覚を扱うときに二つの感覚に言及しなかったのか。その理由はこの二つが全ての感覚を包括しているものだったからです。ですから意図的と見ていいと思います。触覚と自我感覚の二つがまだ純粋に他の感覚と区別できていなかったと言うことかもしれません。

さて自我感覚ですが、これは触覚のように直接物質的なものに触れることなく機能する感覚です。それを感覚として扱っていいのかは判断が難しいもので、否定的に答える人もいると思います。ただ感覚を理解すると言うのは、刺激に反応するそのための器官があるかどうかではなく、その背後の世界観です。例えば五感と言うのは陰陽五行思想という世界観が背後にあって生まれた考え方です。五感というのは感覚能力を数え上げたものではなく、世界観を理解するための補助的なツールと見ていいものです。

十二感覚を取り上げるシュタイナーもよく似ていて、感覚能力を数え上げたものではなく、十二が持つ意味に対応して感覚能力を説明します。ですから痛感覚という一般に感覚的に扱われるものが足りていません。その代わりに思考感覚、言語感覚が存在します。

自我感覚ですが、自我という言葉に惑わされてしまうのですが、この感覚では相手を感覚しているのです。「相手がそこにいる」ということを知らしめているのです。触覚は「自分がここにいる」でした。自我感覚は「相手がそこにいる」となります。人間と言うのは、相手の存在感も含めて、相手を感じながら生きているものなのです。何かの事情で一人で生活している人が、相手を感じることなくいれば、自我感覚は作動しないことになり、だんだん自我感覚は退化してしまいます。真っ暗な洞窟に紛れ込んだ魚が光を感じることがなくなってしまった結果、目が退化してしまうようなものです。

感覚を通して感じていると言うのは、基本的には私たちの存在に関わっているものです。感覚を豊かにすると言うことは、生きていることを充実させるために欠かせないものだと言えるのです。自我感覚が退化して仕舞えば、その人の人生の中に相手がいなくなってしまうのです。相手と言う存在は私たちの無意識を形成している立役者ですから、私たちから無意識がなくなってしまうと言うことで、そうなると顕在意識だけの世界で生きることになるので、判断したり、整理したりコメントしたりすることが人生のほとんどになってしまうことになり、ついには発狂してしまいます。人間は無意識に支えられていると言うことは、相手に支えられていると言うことなのです。自我感覚は相手を感じさせながら私たちを守ってくれていると言うことで、自我感覚なのです。私たちは自分がいると感じながら相手がいると感じることで、精神生活を含めた生命活動を全うしているのです。

 

感覚のこと その一

2025年3月21日

感覚というのは限りなく広く深い世界でいい尽くすことはないと思います。感覚というのは意識することが出来ず、ほとんどが無意識裡のことですから整理しようにも手が出ないというところがあるのです。

感覚のことで興味深いのは、ある感覚能力が欠けている人を見ることで浮き彫りにされることがあります。たとえば視力のない人は、その分他の感覚能力が研ぎ澄まされるということです。目が見えないことで、目が見える人以上に音に敏感になります。敏感と言っても漠然としているので具体的なことを言うと、人の足音に対して敏感になります。足音で誰かがわかるのです。同じ人の足音でもその日の健康状態、心理状態なども感じ取れるのです。声にも敏感になります。ある人の声を聞くだけで今日のその人の健康状態、心理状態が見抜かれてしまうのです。フランスで戦時中にスパイを見抜くために盲目の人が会議場の入り口で参加者一人一人に挨拶をして、実際にスパイを暴き出したことは有名です。目が見えないということで日常生活に不便を感じることはあるのでしょうが、だからと言ってそれが人間として不自由なのだという結論にはならないのです。むしろ自由の可能性を拡大しているとも言えるので、普通に備わっている感覚からマイナスされているのではなく、このマイナスに見えるところは感覚そのものの可能性を広げていることでもあるのです。

痛覚がない人は少し特殊かもしれません。痛みを感じないわけですから、痛みという感覚体験に強烈な憧れがあって、一回でもいいから痛みを味わってみたいと、高いビルから飛び降り自殺をしたりすることが報告されています。熱を感じない人は火が熱いことを知りませんから、火に直接手が触れても、熱さを感じないのですが、熱は皮膚を侵しますから、大火傷をしてしまうのです。火傷には痛みが伴いますから、大火傷をして初めて火傷をしたことに気づくのです。しかし熱いと言う体験はともなっていなのです。

感覚は周囲からの刺激に対して反応し、そういうものがあるのだと知らしめてくれるので、私たちの体験を豊かにしてくれるものですが、一方で感覚は私たちを守っていてくれるものだということが先ほどの例で分かります。感覚は私たちにとって外界に向けての防波堤でもあるのです。

もし人間が感覚能力を全然持っていなかったらと想像してみてください。人間は自らの存在に気づくことはないのです。今私は生きているということを無意識に教えてくれているのが感覚だからです。感覚とは情操や感性を磨いてくれるというよりも、まずは存在していることを教えてくれているのです。

ある感覚のために開発された器具を使って訓練しても感覚の発達には大して役立たないと思います。むしろ逆効果であることが多いように感じています。それは感覚というものの内容を一面的に理解しているからです。平衡感覚を育てるための訓練器具がありますが、それを使うよりも石ころや根っこで歩きづらくなっている山道を歩いているときの方が、体のバランスを取ろうとして平衡感覚が起動し始め、それによって平衡感覚が鍛えられるのです。器具を使ったなりの効果はあるのでしょうが、局部的訓練のような気がします。やはり大自然の中で研ぎ澄まされてゆく方が、体全体に感覚能力が広がるのだと考えます。