2025年4月17日
Toutubeは最近どんどんとAIの作った声に変わりつつあります。古い人間からすると人工的な声という括りになります。ずいぶん改良されているのでしょうが、いまだに聞いていてイライラしてしまいます。表情付けを試みているところなどは進化の証なのでしょうが、それがかえって不自然極まりないものになる原因でもあります。歌に例えれば音を外し歌う音痴と言ったところです。AIナレーションは声の質的な問題ばかりでなく、漢字の間違った読み方が多いのも気になるところですが、この問題はいつかまた扱いたいと思います。
本当のことを言っているかかどうか、私は声を聞けばわかります。声は単なる音ではなくそこには心や魂が生きていているからで、音声は心、魂そのものの映し絵とも言えるものです。話芸を楽しむとき、語り手の喋り方以前に声の質を楽しみます。そこが一番心に響くものだからで、そこに焦点が合わせられないと、聞く気にはなりません。落語や講談物は所詮作り話ですが、そこには不思議と臨場感がある話とそうでない話との間に大きな違いがあります。話の内容は嘘かもしれませんが、伝え方によっては真実に聞こえるものになるのです。それを話術と言うのでしょうが、そこに声が大きく加担していることは否めません。声は嘘をつかないので、話が嘘でも声によって本当に変わることができるのです。
友人に誘われて講演会に足を運ぶことがありますが、そこでもどんな声で喋る人なのかによって、講演に入り込めるかどうかが決まります。声が気に入らないと、話に身が入らないのです。ある時は「こんな声じゃ所詮大したことは言えない」と、はじめっから上の空で聞いてしまいました。もちろん途中でウトウトとしてしまいました。
このような観点からするとAIナレーションはまだまだ声の段階には達ていなくて、冷たい言い方をすればまだまだ幼稚な声と言えます。AIの声をプロクラムしているエンジニアの方達はそれなりの研究を重ねているのでしょうが、声に関してはまだまだ人間の声とは程遠い従兄弟ろにあると言わざるを得ないようです。
ではどうすればいいのかということになりますが、呼吸のことをもっと研究する必要を感じています。声は呼吸そのものです。そして呼吸は心、魂そのものなので、三段論法的に、声には自ずと心、魂が宿ることになるのです。声の響きには深い呼吸が欠かせない要因ですから、音としての声というアプローチからだけでは、いつまでも人工的な声にとどまってしまい聞きやすい人間の声に近づくことはできないと思います。出しゃばって言わせていただくと、AIに深呼吸をさせてみてはいかがでしょうか。その時の息の流れの中から声が生まれるのであれば、人間の声にちかくなります。声帯というのは随意筋の中で一番繊細な動きをするところです。その繊細なところを空気が通ります。声帯が震えるのです。その過程で声に欠かせない翳が生まれます。この翳は魅力のある声の持ち主には必ず聞かれるもので、逆につまらない声の人からは聞き取ることができない物です。影がないと薄っぺらな声になります。
AIの世界というのは、絵画の世界にあっても、私の素人判断でいうと、必要なものだけが描かれているようです。テーマ、あるいはモチーフとなっているものに焦点があわせられるのでしょう、それはよく描けているのですが、それだけで絵は出来上がっているのではなく、それ以外のものとの調和のようなものが必要になってきます。つまらないものと言いましたが、直接モチーフとは関係のないものという意味です。
例えば講演でもテーマを話すだけだと全くつまらないものになってしまいます。15分もあれば済んでしまうところを、雑学というのか、先ほどのつまらないことを織り交ぜながら引き伸ばすことで、言いたいことに膨らみが生まれるのですから、声にもそういう要素が加味されてくると聞きやすい心地のいい声になるのではないかと思います。
2025年4月14日
フリッツ・ヴンダーリッヒというドイツのテノールで興味深い経験をしました。彼は不慮の事故で35歳という若さで亡くなったドイツのテノールです。おそらくドイツのテノールの中で今でも人気があり、彼の命日にはラジオでは必ず追悼の番組が組まれています。
シューベルトの「水車小屋の娘」という歌曲集を二回録音しています。一回目は28歳の時、もう一つは亡くなる年の35歳の時です。彼は不慮の事故で35歳で亡くなっていますから、二回目の録音が最後の録音ということになります。
28歳の時の録音は若いテールの声がみずみずしく何度も聞きました。35歳のものに比べると歌手としてようやく一人前になって初めて録音の機会を得たものですから、専門的に比べると色々な面で見劣りするのでしょうが、魅力あふれる録音なのです。
歌心というのは持って生まれたものなので、練習して上手になるものではないと思っています。歌心という点で比べると、一番目の録音の素直さとみずみずしさとは格別で、7年後の録音にはない初々しさがあって聞いていると直接訴えかけてきます。
専門家の批評とは別で、私にはまさにそこが彼の歌心がはっきりと垣間見られるところに魅力を感じているのです。35歳の時の歌は表情付けなどの擬出的な部分は聞き所があるのでしょうが、歌そのものが上手になったかどうかは別の話です。二つの録音のもう一つの違いは声の質です。二回目の録音の時は声の質が7年前の瑞々しさを失っていて、声にざらつきのような荒さが感じてしまうのです。きっと本人もそのことは気づいていたのだと思います。それを歌唱力というテクニックでカバーしようとしているようなのです。それを一般には歌唱力に関して成熟したとかいうのでしょうが、私は首を傾げてしまいます。進化というよりもむしろ退化しているように聞こえるのです。この7年間に彼は世界中を飛び回り、世界中のオペラハウスで歌い続けていたのです。それは歌手としての名声には大きく貢献したのでしょうが、声にとっては過酷だったに違いないのです。声はみずみずしさを失っていました。そして生来の歌心よりも見栄えのする歌唱力で張り上げるように歌ってしまうのです。
同じことはスウェーデンの歌手、ユーシー・ビヨグリングの場合にも感じています。28歳の時に歌った歌を53歳の時に歌っているのが録音で残っていますが、53歳の敵の録音では往年のみずみずしさがすっかり失せて、乾いた声が張り上げて歌っている姿は哀れに思えてならないのです。ベートーヴェンの「アデライデ」を歌っているですが28歳の時の天に向かって羽ばたいてゆく初々しい声と歌心は53歳の時の歌には聞く影もないのです。彼も歌いすぎたのです。世紀の美声と言われたので、世界中からオファーがあったのでしょう。でも結果的には歌いすぎたのだと思います。歌は歌えば歌うほど上手くなるとは限らないのです。
初心ということを芸の世界では言いますが、この二人の素晴らしい歌手があるところで初心に帰らなければと気づいて立ち止まっていたら、末長くみずみずしい歌声が維持できたのではないかと惜しまれてなりません。残念ながら西洋には初心に帰るという考え方はありません。
職人さんの世界では、初心と熟練とは矛盾したものです。修行に入ったら早く仕事を覚えなければなりません。機械のように正確に百個のお茶本を作ったらいつも同じものができ出来なければならないのです。しかしそれがいつしかマンネリになってしまうという繊細な世界です。そんな時に初心を思い出して奮起できるかどうかは、その先の仕事ぶりに大きく影響するものだと思います。
初心と熟練の間を行き来できるなんて、職人の世界というのは実は哲学によって支えられていると思わざるを得ません。仕事という具体的なものを通してそれを体験できるなんて幸せな人生体験です。
2025年4月11日
こころは人間にとって一番重要な問題だと思います。
物質世界にどっぷり浸かった肉体と精神的な霊の世界のと仲介役を演じているからというのもその理由の一つです。そのためにどちらからも引っ張られてしまうわけで、ある意味では不安定な状態を余儀なくされ、そのため理性に沿って学問的に整理しようとすると、分かりにくくなってしまいます。
分かりにくいから重要だというのではなく、こころを持つことで人間になるからなのです。
一般的な見解からすると、こころは脳にあるとされます。特に前頭葉で作られると言う方が後を絶ちません。しかしそれは説明を容易にするための逃げ口上のような気がします。また日本ではよく耳にする霊魂という言い方に注目してみると、霊と魂、つまりこころとが渾然一体となってしまっていて、その区別がつかなくなっています。一霊四魂という言い方が浸透ではされていて、れいという元締めが四つの魂を収めているという世界観からきていますから、霊と魂も元々は別物として捉えられていたものです。
こころは日常的には感情全体として理解されている場合もあります。
何がこころなのかと言われると答えに窮してしまうのは私だけではないようです。
シュタイナーにとってこころの存在は格別なものでした。ある講演の中でこんなふうに言っています。山の上から下界を鳥瞰しているのは霊的な立場の人たちで(彼は神智学的と言っていました)、地上にあって下界を研究しているのが自然科学者たちだと言った後、シュタイナーの人智学については、山の中腹にいて上を見れば霊の世界があり、下を見ると下界が見えると説明しています。と言うことは人智学は自然科学的てもあり霊的な立場の人の様でもありということで、見方によってはどっちつかずと言うことにもなりかねないものですが、その中間の位置していることから視野が広がるとも考えられます。きっとどっちつかずというところが自然科学者からも人智学の理解を難しいものにしているのかもしれません。まさにこころのあり方そのものです。
またあるときは、はっきりと、「私は心のあり方を明かしたいと思っているのです」と言っていますから、人智学というのはこころの世界を明らかにしようとする独自の学問のようです。初めに言ったように、こころはとても不可解で、不安定なもので、輪郭を付けて整理することに慣れている現代人にはわかりにくいものですから、人智学も同様になかなかわかってもらえないものなのかもしれません。
西洋の伝統に目を転じると、そこではこころを知情意と分けています。知情意と並べた時一番わかりやすいのは、知の部分です。知識とか知性とか知的とかいう時の知です。特に現代社会を見ると知の部分が突出している社会です。そこでは知が一番の関心事です。知的なものは知能テストなどが考案されて測ることができると思われています。もちろん測るとは言っても限界はあるのでしょうが、とにかく数字になって表されるものですから安心できるのだと思います。あるいはグラフにして示したりすれば視覚的にも捉えられます。しかし感情はどうでしょう。数字は期待できません。蓼食う虫も好き好きの様なものですから、せいぜい幾つかにグループに分類されたりしている程度です。さらに意志となると全くお手上げなのではないかと思います。ドイツの哲学者シューペンハウエルは意志は知は思考のもとで明晰なものですが、意志の動きは盲目的と言っています。もちろん意志の強い人と意志の弱い人があることくらいははっきりしていますが、それ以上のこととなると混沌としてしまいます。シュタイナーは知情意という捉え方を認めた上で、実際には知情意は三つ巴の様な形で心の中で絡みあつて存在しているといいます。そうなると今日のように知的なことに興味がある時代は、心の中の知の部分を無理やり抽出してそこに焦点が当てられる傾向が出て来るもので、他の二つは整理がつかないので影を潜めてしまいます。もしかすると知というのは物質的なものと結びつきやすいのかもしれません。となると意志は霊的と言うことになるのでしょうか。シュタイナーはこのところをはっきり認識していたので、彼が提唱した教育では意志を育てる必要性を強調しています。
精神主義者たちは物質中心に考える人たちのことをよくいいません。反対に物質世界にしっかりと根っこを張って生きている人たちは精神主義者たちのことが地に足のつかない人たちと見ています。二つの世界の間を行き来できる様になることが望ましいのです。ギリシャ神話の中に登場するヘルメスは地上と性の世界の間を自由に行き来できたと言われる神様です。一番こころの本質を表している神様なのかもしれません。そして不思議なのはこのヘルメス神は他にも色々なことをつか取っているまるで万能の神のような存在なのです。こころも本来はそのくらい自由奔放に生きられるものなのだと思います。そのようにこころをもっと広い視野から捉えられるようになると、こころの存在がはっきりと浮き彫りになってくると思います。こころは誤解されているのです。こころの中途半端は実は大きな存在意義があるのだと言うことがわかって来ると、人間観が大きく変わると思っています。今はまだ物質の世界と霊の世界は残念ながら水と油のように相容れない様です。
こころのあり方が少しは見えてきたのではないかと思います。綱引きの綱のように強い方に引っ張られてしまうものなのでしょうか。こころの働きはこの二つの力からの影響だけから捉えられていいものではなく、こころ本来のあり方を見つけなければならないのだと思うのです。心理学のように学問的にアプローチされるのも大切なことですが、こころはそれ以上のものだと思っています。深層心理学や無意識という言い方で、こころの見えないところ、不可解なところを説明しようとしているのでしょうが、こころを説明する言語を人類はまだ見つけていないのかもしれません。
こころをこころと感じるためにはどうしたら良いのでしょうか。純粋にこころに耳を傾けたらどうなるかと言うことです。