一般人間学と倫理のこと

2024年4月25日

一般人間学を読む度にシュタイナーが開口一番倫理のことを持ち出すのにびっくりします。二週間にわたる連続講演の最初に、倫理のことを持ってきたのですから思うところがあったはずです。

シュタイナーの哲学書として読まれ続けている「自由の哲学」のなかで、一箇所倫理的ファンタジーと題されたところがあります。ところが、そこで深く倫理の問題を論じているのかというとそんなことはないのです。自由の哲学では、の他の箇所でも倫理についてはほとんど触れずにいたと思います。

ところが学校を作ろうと集まった人たちを前にして、シュタイナーは倫理のことから話し始めたのです。しかも倫理が霊の世界と私たちを結ぶものだと暗示しながらです。それを読む現代の私たちは、若い世代の人たちとの読書会の時の経験からすると、どうも倫理を持て余しているようなのです。私たちの時代はなるべく倫理について語らないように教育されているのでしょうか。

倫理については一番自由に話したいと願っていますが、倫理は必ずと言っていいほど既製の宗教と結びつけられてしまいます。ある宗教の持つ宗教観の中で倫理が語られるこのです。しかも宗教そのものがタブーのような社会的な風潮では、倫理は居場所がないとが多いようです。

倫理を自由に語るには、非倫理的な問題も含めて語ることが求められます。倫理は善悪と関係していますから、一面的に善サイドから倫理を語るとみんな善人のふりをしそうな気がします。非倫理的であること、つまり悪いことをも認めないと倫理の意味を深く理解することはできないのです。

絶対善も絶対悪もないのです。倫理というのはその間のグレーゾーン全体のことだと思います。限りなく白に近いグレーか限りなく黒に使いグレーかということです。善と悪の間を力強いフットワークで行き来できる内面の力が倫理に近づくためのセンスを与えてくれるのです。倫理を語るには博学である必要はなくただセンスが必要なだけなのです。

自閉症とダウン症

2024年4月24日

スイスのある障害者施設が自閉症の子どもばかりを集めて開設されました。

私がスイスで勉強している時の話ですからもう四十年近く前の話です。当時としては画期的な試みで色々な方面から注目されていたのを覚えています。

そこではさまざまなセラピーが用意されていましたし、医療的にも自閉症への取り組みが積極的になされていたので、その分野では期待されていたのですが、開設してからしばらくして評判が落ちて行くのがとても気になりました。

私は当時ドルなっ派に席を置いて勉強していたのですが、その施設はドルナッハの裏手の丘にできた、見晴らしの素晴らしくいい施設だったので見学に行ったのを覚えています。内部も綺麗に整備されていて自閉症の子どもたちはきっと居心地がいいだろうと感じるような作りでした。

施設に収容されていた子どもは総勢で五十人ほどだったと思います。最新の設備、セラピーが用意されているのがご自慢だったのですがしばらくして一つの問題が発覚したのです。施設で働いている職員さんたちが、施設には自閉症の子どもばかりで、ホッとする時間がなく、精神的にストレスが溜まってきてしまったのです。

私も施設に入った時に一瞬冷ややかな感じがしたのを覚えているのですが、毎日お仕事をされている職員の方々はだんだん病気になっていったのです。施設全体の雰囲気が冷え切ってしまったというのが一番適切な言い方だと思います。

最新の医療も、セラピーも積極的に取り入れられたのですが、この冷たい雰囲気を払拭することはできなかったのです。施設を閉じるわけにもゆかず、何か策を講じなければならなかったわけです。

その時に提案された一つの案によって施設は再び活気を取り戻し、機能し始めたのです。何をしたのかというと、さらに進んだセラピーの導入でももっと進んだ最新の医療器具でもなく、ダウン症のお子さんたちの入居に踏み切ったのでした。それまで掲げていた自閉症の専門施設という名目は返上することになったのです。

ダウン症のお子さんたちの暖かな言動によって、自閉症のお子さん達の間にも温かい流れが生まれたのです。もちろん施設の職員の方達にも笑顔が蘇ってきて、温かい雰囲気の中でお仕事ができるようになったのでした。

ダウン症のお子さんたちの中にはもちろん気難しい子どももいます。しかし基本は笑顔です。溢れんばかりの笑顔です。意外とシャイな性格のお子さんが多いのですが、慣れて仕舞えば彼らの挙動は微笑ましい限りです。

この暖かさが自閉症のお子さんだけを集めて冷え切ってしまった施設の空気を温め和ませたのです。

最新のセラピーも医療器具も、ダウン症のお子さんの入居からしばらくしてなくなっていました。

ダウン症のお子さんたちはセラピー以上の働きをしてくれたのです。

 

私がドイツでお世話になったビンゲンハイムという施設の創立者であり長年施設長をされたシュタルケ博士は、「治療教育の大前提は施設での生活だ」とはっきり言い切っていました。ビンゲンハイムを出て音楽セラピー、絵画セラピー、言語セラピーと言ったセラピーの勉強をしたいという若い人たちは後を絶たなかったのですが、「セラピーでは得られないものが施設の生活の中にはあるのだ」と言っていました。

私も五年の間に生活の中で培われるものの大きさは痛感していました。

セラピーも大事なことなのでしょうが、セラピーより大きな力を持つものがあることも経験から知りましたから。その結果、日常生活の中で培われるものが治療教育には欠かせないと深く感じている次第です。

スイスのあの施設は、自閉症のお子さんたちがダウン症のお子さんたちと生活空間を共有するようになったことでその後も長く存続できたのでした。

太陽からの「ラ」の音よりも、地球の「ド」の音

2024年4月22日

オーケストラの演奏会では演奏の前に楽団員全員で音合わせの儀式を必ず行います。オーボエのラの音がまず響き、それをコンサートマスターが受け、その音に全員が合わせます。

かつてのウィーン交響楽団にはヴァイオリン属の楽器を調弦する専門のおじさんが居て、彼が弦楽器は全部音合わせをしていました。楽団員は舞台に登場すると椅子に置かれた調弦された楽器を手にして演奏したのです。今から思うとなんとも優雅な時代だという感じですが、想像するにいい音がしていたような気がします。

 

今でも調律ということで基本となる音は太陽の音「ラ」です。

ところがこのラの音は場所と時代でテンデンバラバラなのです。390ヘルツから470ヘルツくらいの幅があります。ウィーンのラの音、ヴェルサイユ宮殿のラの音、ベルリンのラの音から始まって世界各地で色々なラの音が使われていました。現代に入り、世界の文化交流が盛んになり、ヨーロッパの中をいろいろな楽団が演奏旅行をするようになった時に、それぞれの国が持つ違った「ラ」の音では全く不便で、イギリスから440ヘルツで統一しようという提案があって、1930年代に統一されました。まずはヨーロッパが440ヘルツで統一されました。それが今世界の基準になっているものです。ただ今現在では少し高い442ヘルツが主流だと聞きます。カラヤンというベルリンフィルの主席指揮者だった人はもっと高いラの音を使ったと言われています。それによって音の緊張感が増すと考えたのでした。アメリカにわたったラの音は450ヘルツを超えていたと言われ、そこまで弦の張力を上げてしまったことで楽器に異常が生じ、再び低く設定したという経緯もあるようです。ちなみに日本の雅楽の「ラ」の音は437ヘルツくらいだそうです。

古い時代に作られたパイプオルガンには470ヘルツのラの音を持つオルガンがあります。昔だから低かったというのは必ずしも正確な言い方ではないようです。

ルドルフ・シュタイナーは現代はラの音が基本ではなくドの音を基本だと考えていました。一つ前のギリシャ文化期は太陽から音が与えられていたので「ラ」の音が神聖な音でした。「ラ」は太陽で生まれた音なので、ギリシャ時代は太陽からの「ラ」が中心でした。ギリシャ時代にすでにあったギターはキタラといい、胸に抱えて奏でるという意味です。現代のギターを見ると真ん中には丸い穴がありますが、それがまさしく太陽文化の名残です。リュートの綺麗な細工が施された丸い飾りのついたものも太陽を表しています。音楽は太陽からの恵みだったのです。そこでは神聖な「ラ」の音から導き出された音楽が溢れていたのです

最近よく耳にするのは、432ヘルツがヒーリン的にいい音の高さだということです。現行の440ヘルツは悪魔の響きということのようです。ヒーリングにいい音を聞くと心が緩みやすらぎすぐに眠れるのだそうです。リラックスにはもってこいなのだそうです。

どこからこの「ラ」が由来するのか私は知らないのですが、ご存知の方がいらっしゃいましたらぜひコメントに書き込んでいただきたいと思います。私のこのブログへのコメントは私以外の人間が読めないようになっていますので安心して書きたいことを書いていただいて構いません。。

 

ルドルフ・シュタイナーは「ド」が地球の振動する音と捉えていました。地球に振動が生まれると、1が2になり、2が4になり、4が8になり、8が16になり、16が32になり、32が64になり、64が128になり、128が256になります。256ヘルツが大地からの振動の音ということなのでしょうか。

 

ここまで来たら調律の話をしておかなければなりません。純正律がいいと考える人がいますが、五音からなるペンタトニックまではそれで調律することができますが、「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」の七音からなるディアトニックになると純正では調律できなくなってしまいます。

バッハが発明したと言われる四度と五度とを組み合わせて行う調律だと、オクターブが計算で出てくる誤差が8分の1音ほどあり、純正律と比べるとどうしてもズレが生じてしまいます。調律師はそれを振り分け、混ぜなければならなくなるのです。一つのピアノを10人の人が調律すると、10種類の違った調律がなされるということが生じるのです。オクターブという中に音を閉じ込めようとすると、調律的に嘘をついていることになるからなのです。純正律の人から見ればそれが不純な調律ということなのですが、ドを根音とする現代の音楽生活にはそれでしか対応できないという現実を見過ごすわけにはいかないと思います。

ピアノやハープ、ライアーのように七音の間に半音が入り一オクターブが12音となった時に、一オクターブを均等に分けなければ、転調する音楽が演奏できなくなるので、一つの調でできた音楽で満足する音楽しか演奏できない純正律の生き延びる道は極めて狭いと言わざるを得なくなります。

ただラの音を中心にした五度の五つの音からなるペンタトニック、さらにはそれより少ない音を使う場合には、転調や調性の問題がなくなるので純正律で調律でき透明な響きの世界を楽しむことができます。これはこれで「ラ」の世界からのプレゼントだと言えそうです。