再び、行間の重みについて
行間を読むという作業は意識的にできるものではないかもしれません。ですから、力んで行間を読もうとすると肩透かしを食います。
読んでいるときは字面を追うわけですから、書かれているものを一生懸命読めばいいのです。そこで行間を一緒に読むなんて想像を絶するほどのことで簡単にはできないことですから、そこは気にしない方がいいです。何回も読むというのは行間を感じるためにはいいことです。
行間は無意識で読むものです。無意識とは言っても、かなり意識に近いところの無意識だと思うので、力んでしまうのかもしれません。力をついて読むというのが大切な訓練です。
翻訳をしている時には、まずは言葉からです。言葉をしっかり訳しきることは何よりも大事な作業です。意味の正確さはそこからしか出てこないからです。しかし意味だけでないのが言葉です。ここを行間に頼るのです。まさに頼るという感覚で、自力で行間から何かを引き出そうとすれば、グロテスクなものに成ってしまいます。
行間を汲み取っていない翻訳は読んでいて苦しくなってしまうものです。なぜかというと普段使っている日本語ではなく純粋に翻訳調だからで、なんとか意味からの綱にぶら下がっているだけの死んだ言葉だからです。
俳句というのは十七文字しか使えない極めて特殊な詩形です。十七文字で全てが言い切れるわけではないので、言葉で読まれていないところをうまく使わなければなりません。俳句を作る方も、読む方も言葉になっていなところを探っているのです。それはまさに行間を読むという作業そのものです。言葉になっていないところでたくさんのことを伝えている俳句がいい俳句であることは、俳句を少し齧った人間なら誰でもが知っていることです。
俳句の翻訳は確かにありますが、言葉になっていないところを翻訳するのは相当の語学力と言葉のセンスがないとできないことです。
もちろん散文にも行間はあります。書き言葉からも行間は読み取れます。講演録だと基本的にはしゃべり言葉の世界ですから、書き言葉よりも行間が大切になるような気がします。行間というよりも、その場の雰囲気のようなものかもしれません。そんなものが翻訳できたらいいのですが・・