忘れるとき、思い出すときのこと、そして無私の関係

2023年4月7日

思い出すときの快感は他に比べるものがないほど光り輝いています。どこに置いたか忘れてしまったお財布のことを一生懸命思い出そうとして思い出せずにいる時、ふとしたことがきっかけで思い出せた時の喜びは他人にはわかってもらえない、自分だけの秘密に出会った時の喜びです。その体験は光り輝いている、キラキラしているという光体験です。

なぜこんなに思い出すということが嬉しいのかというと、忘れていたということが前提となっています。

忘れるというとなんとなく暗闇の世界を想像しますが、本当は全く逆で、忘れている時、その忘れられたものは暗闇どころか、光り輝いている世界で憩っているのです。

若い頃にモーツァルトの音楽に心酔していて、毎日飽きずに聞いていました。その時はモーツァルトの音楽の輝いているところに魅力を感じていて、天国に通じている、どこかにきっとある扉を開けたら、そこにはモーツァルトの音楽のような光り輝く世界が広がっていると信じていました。

忘れられたものもきっとそこにあるのです。そして思い出すというのはそこにたどり着いたことなのではないのでしょうか。そして何より大事なのは、人間だけが忘れることができるということなのです。ここが動物と一番違うところで、動物は忘れられないのです。ということは、思い出すという能力も動物には備わっていないのです。動物はあの秘密の扉を開けることができないということです。 あの光り輝く世界を体験できるのは人間だけなのです。多分天使は知らない喜びです。。

しっかり忘れて、しっかり思い出す、これが私たちの生命力をも強くしている様に思うのです。忘れないでなんでもずっと覚えていたら、それこそ暗黒の世界の住人になってしまうのです。鬱の人たちは忘れられない傾向が強いかもしれません。

私たちの時代の教育環境にいると、忘れるということの大事さに気づかないのですが、実は覚える教育と言われてもずっと覚えているわけではなく、やはり忘れているので、必然的に思い出すという行為も鍛えられているのです。ただそのメカニズムに気づいていないだけなのです。よく忘れるほどにしっかりと思い出すことができるのだと言われる所以です。

シュタイナー教育ってどういう教育ですかと聞かれたら、いの一番に「忘れることを教える教育です」と答えます。大抵はキョトンとした顔をされるのですが、私にはそれ以上の答えはないと思っています。よく思い出すためにしっかり忘れるとも付け加えます。

忘れるのが怖いと言った人がいました。どのように怖いのですがと聞いたら「後ろに、後ろ向きのまま倒れる様な感じです」と言われました。別の人は「素手で戦う様な感じです」と言われました。忘れるって、確かに手がかりがなくなってしまうので、何も持っていないのに近いのかもしれません。

無私というのも忘れるに近いものだと思っています。何か大きな力に自分を預けることができれば、自分が消えてしまうような境地に入れるのでしょう。そうしたら自分がなくなるのではなく、却って自分が他人のように思えるので、もう一人自分が増えた様なものと言えないこともないのです。

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