自らを翻訳する
翻訳と言うのは、外国語に携わる人たちのものと考えがちですが、意外と広い意味で「翻訳」は人生に欠かせないもののような気がします。
ドイツ語を日本語に翻訳する。これはドイツ製品の説明書を日本語にするときのレベルです。言葉の意味を移行すればいいのです。それで用が済んだと言うわけです。ところが文学は違います。作者の思いが言葉になっているので、言葉を手がかれに作者の心、思い、意志にまで降りて行かないと、翻訳したことにはなりません。優れた翻訳は、翻訳されたものが翻訳者自身によって書かれたもののような感じで読めるものです。翻訳者の言葉というところまで来なれないといけないのだと思います。翻訳のことを考えると、今は翻訳機械のことがどうしても浮かんできます。最近はどんどん進化していて、文学作品ですらも翻訳できるところまできています。それどころかAIが小説を書く時代です。しかもそれがなかなか良く書けているというのです。
人と話をしていると、深い話ができないと感じる人がいて、話しながらその原因を探していると、その人は多くのことを一般論的に話し、しかも諺や著名人の引用などで話を組み立てているのです。その人の人格で咀嚼され、こなれた言葉が少ないのです。
話がそれますが、役所で用を足していると、お役人さんたちというのは、人を見下しているもんだとつくづく思うのです。その証の一つが、難しい言葉をわざわざ使って説明するという裏技があります。ドイツ語ですと、ギリシャ語・ラテン語からの外来語を、専門的な箔をつけるために乱用して、市民に脅しをかけてきます。私は意地悪なところがあるので、時々使い方が間違っているとわざわざ聞き直したりして、恥をかかせて楽しむのですが、つくづく思うのは自分が背後にない言葉は力がないものだということです。
さて翻訳を外国語から切り離してみたいのです。外国語以外に何を翻訳するのかというと自分をです。自分の心なり、自分の考えなり、自分がしたいことなどです。自分だけでいるときはそれを人様に伝える必要などないのでしょうが、人間は一人では生きてゆけないし、他人と色々とシェアーするは特別に楽しいものですから、自分の中を人に話そうとするとき、翻訳が必要になってきますが、なかなか難しいものです。分かったつもりが一番危ないものですが、自分流の説明の仕方というのも相手にはなかなか分かってもらえないものです。
今までたくさん講演をした中で、気付かされたものがたくさんあります。その中の一つに、聞いている人の気持ちになって話をするというのがあります。しかし聞いている人が一人ならともかく百人もいたらそんなことは構っていられません。できることは自分の最善を尽くすということです。しかしこんな曖昧なことでは問屋が許してくれません。
しかしサイコパス的に機能的な部分だけを優先して話をしても、役には立つのでしょうが乾いた冷たい話しになるので気をつけなければなりません。
自分に向かって自分を翻訳しようとすると、まず文章化することが一番です。初めてやる人は、自分ってなんでこんなに文章が下手なのかってびっくりします。でもこれは普通で、自分を今までに翻訳したことなどなかったからです。初めてマラソンを走ってもいいタイムが出ないようなものです。
自分では分かっているつもりのものでも、書いてみると迷いだらけでうねうねとくねっていて、とても他人が理解できるようなものではないことに気づきます。わかりにくいというのは確かに欠点ですが、よくわかるというのはそれはそれで危険なものです。あまりによく整理がついているものは逆に危ないもので、実をいうと少しくらい訥弁の方がよく伝わっていたりもするのです。自分に向かっても同じようなもので、あまりに自分をうまく説明してしまっているのは、真実味が欠けていて、本当ラシは聞こえるのですが、聞き手の心を打つことはないのです。
自分を翻訳するなんて言わないで、自分と対話すると言えばいいのでしょうが、翻訳と言うのが、この場合新鮮な気がして使ったのですが、自分と言うのは、よく分かればわかるほどわからなくなってゆくものというのは、古今とうざ共通した悩みのようです。