運命
運命について何か言えるかどうか、それは書いてみないとわかりません。もちろんここでは堅苦しい論文でもなく、また複雑な哲学をするつもりもありません。そうではない形で運命について書いてみます。
一体どこで運命を感じるのかと自問するのですが、日常の、普通の生活意識のレベルでは運命の輪郭がはっきりしてきません。ぼんやり感じられることが稀にある程度です。私だけでなく、多くの人が普通は運命のことなど考えずに生きているのではないかと察します。逆に運命を意識しなければならないような人生はしんどそうです。
それでも時々運命という言葉を耳にすることはあります。例えば「運命的な出会い」なんて言い方です。ところがそこで真剣に運命を感じているのかというとそんなことはないようで、習慣的に運命という言葉を使っているだけで、実際は劇的な、嬉しい、人生観を変えるようなという形容詞でもことは足りるようです。それに運命は何もドラマチックでなくてもいいと思っています。そもそも淡々としているもので、それゆえに普段の生活からは感じ取れないものなのかもしれません。
運の強い人、ということを言いますが、見方を変えれば良い偶然が重なっている人だけかもしれません。昔のことですが渋谷の映画館で小津安二郎の映画がかかっていて、友人と二人で当日券の売り場で並んでいると、私の前の人のところで売り切れになってしまいました。私の前に並んでいたその人は諦められないようで、しばらく窓口でしつこく交渉しているのですが、「ないものはないのです」とキッパリと断られてしまい仕方なく帰って行きました。私は、分かっているのにニコニコして「ないんですね」と確認の言葉を窓口の人と交していると、電話が鳴ったので「しばらくお待ち下さい」と言ってその人は電話に出て、しばらく話していて、「キャンセルが出たので切符が二枚ならあります」という返事が返って来ました。その券を買って無事映画を見ることができました。一緒だった友人が帰り際「お前は運がいいな」と言っていましたが、私が運がいいのか、友人が運が良いのかはわかりませんから、「そんなこと分からないよ。偶然だよ」と返事しました。偶然なんかないという人もいますが、証明はできません。
いい人生を送る人と、大変な人生を送る人との違いは、確実にあります。気の持ちようで変わるものですが、いい偶然がどのくらい巡ってくるのかの違いかもしれないので、それを運命と決めつけてしまうと、運命は人を縛るものに見えてきてきます。
仮に運命があるとして、運命が私たちを解放するものでないと、私はそんなものを認めたいとは思いません。ただ解放するとは言っても、簡単ではなく困難が伴うこともあることは当然です。