言葉は沈黙のしずく

2023年5月4日

ある講演の中で、言葉のことを、「沈黙のしずく」と言ったら、その後すぐに生まれたお嬢さんに「しずく」と名付けた方がいらっしゃいました。言葉をこんに風に感じたことがなかったと言ってとても感動されていて、ついにはお嬢さんの名前にまでしてしまったのです。

 

言葉と沈黙はどのようにつながるのか、言葉をただコミュニケーションの道具としてしか見ていない人には分かりにくいものですが、言葉によって生きる力や、生きていることを支えてもらっている人にとっては自明のことです。詩的な言葉、ポエジーの含みのある言葉、生きている言葉と言われる言葉にはその奥があって、それは精神性の高いもので、霊的なインスビリーションのことです。それを私は「沈黙」と呼んだのです。そしてその沈黙を水に例え、水が雨垂れの雫のように滴る時の様子をスローモーションのように拡大して、「沈黙のしずく」と言ったのです。

沈黙は内面的な精神力のことで、ほとんど霊的なもので、日常に雑多から解き放たれないと聞こえて来ないものです。沈黙は無音とは違いますから、聞く耳を持てば聞こえるものです。しかもこちらの心が澄んでくると、一層よく聞こえます。

精神修行は、想念の惑わしから解き放たれ、雑念を排し、内面化してゆくプロセスで、沈黙が聞こえてくるまで続くものです。すぐにそこに辿り着く人もいれば、何年やっても何も聞こえない人と色々です。

私の微かな予感なのですが、遠いい将来なのでしょうが、沈黙が自ら語り出すことがあるのではないかと思っています。私のたちの言葉があまりに雑念ばかりになってしまって、それに耐えられずに、「自分で語る」と沈黙が語り始めるのです。

ドイツで講演をしていた時に、ある講演で言葉を「沈黙のしずく」と言ったら、講演の後、ある年配の男性が「言葉は沈黙のひびき」といった哲学者がいるのを知っていますかと話しかけてきました。知らなかったので「知りません」と答えると、マルティン・ハイデガーですと教えてくれました。

その後彼の本を読んだのですが、その箇所には残念ながら巡り会えませんでしたが、いくつかの講演録を手に入れそれを読んでいるとき、なんとも禅に近い哲学だと感じました。ドイツでも哲学者たちよりも芸術家たちに多く読まれている珍しい哲学者です。

いずれにしろ言葉を手繰って行くと沈黙にたどり着くようです。

私にとって言葉は、沈黙という鐘の響きよりも、むしろコンコンと湧き出ずる泉のような感じです。霊泉です。

 

コメントをどうぞ