初めに言葉ありき、ではなく、初めに考えた。
初めに言葉ありきは誤訳です。これによって言葉依存症という文化をキリスト教が作ってしまったのはキリスト教の犯してしまった大きな罪です。
「初めに、人間は考えることから始めた」と訳してもいいのですが、実はこれでも同じく誤訳なのです。ところがこちらの方には言いたいことを少しは含んでいるようです。
考えるとは言っても現代人がいうところの「考える」ではなく、つまり整理整頓することではないということです。整理整頓は今コンピュータが得意としていることで、その点に関しては人間を遥かに超えてしまっています。
二千年前、人間たちは違ったふうに考えたのでした。どのように言ったらわかってもらえるか自信がありませんが、頭で、脳で考えたのではなく体全体で考えたと言っておきます。
体全体で考えるというのは、今で言うとどのようなものに例えられるのかと言いますと、禅問答のようなものになりますが、何も考えないで考えている時です。その時体で考えていると言えます。まだわからないと言う人には、赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲んでいる時に、口だけで飲んでいるのではなく、体全体でおっぱいを飲んでいる姿を思い出していただきたいと思います。足もひくひくと動かしながら、体全体でおっぱいを味わっているのです。しかし大人のような味わい方ではなく、おっぱいと一体となっているため、厳密には味わっているとは言えないかもしれません。しかしそこでの体験が将来の味覚に育ってゆくことは確かですから、初期の段階の味わうだと言えます。
当然今の考えるも、将来どうなっているかと言うと、今のままであるわけではないのですが、今の考えるを出発点としていることは間違いありません。私は二つの在り方をイメージしています。一つは「体全体で考えるようになる」と言うこと。もう一つは「考えなくなるだろう」と言うことです。どちらも今の考えるに固執していると、想像しにくいものです。シュタイナーはよく、精神修行を積むとハートで考えるようになると言う言い方をしますが、これもその先駆けです。とにかく思考が頭から、脳神経の働きから解放される方向にあることは確かかもしれません。
皆さんもぜひ考えないで考えてみてください。
思考が自然と、宇宙と、霊的なものと一つになってしまいそうで、見方によると危険なことですが、段階を追ってそこに到達すれば、確実に別の地平線が広がるものです。ただ今日はそれを薬物などで、精神修行というプロセスを通らずに得ようとしているところが、地に足のついていないものになってしまうので危険だと言っておきます。