時空を超えて

2023年5月8日

この言葉の本当の意味はわからなくても、なんとなく分かったつもりになれるもので、今まで悩んだことはありませんでした。ところが先日突然「なんだろう」と思い始めたのです。

空間は、立て、横、高さの三次元です。あるいは、前と後ろ、右と左、上と下です。それに時間が加わるので、時間を四次元と見做します。時空を超えたらそれは五次元ということになると言われ、頭の整理が必要になって来ました。

 

以前から時間と空間とはある意味正反対のようなものだと思っていました。空間の時には近くのものがよくみえ遠くになるとだんだん掠れてしまいます。十メートルも離れたら特別の視力の持ち主以外は見えなくなってしまいます。時間は近くの方が見にくいというところがあり、遠くになるほど鮮明になるようです。歳をとると遠い昔のことははっきり覚えているのに今さっきのこととなるとさっぱり覚えていないというのです。

心はどちらかというと空間的かもしれません。近くの人ほど気になるものです。殺人事件で一番多いのは近親、それもつれあいだというのは、近くにいる人ほど気掛かりだという証拠です。何キロも離れたところに住んでいる赤の他人のことなど全然気になりません。

時間は過去から今に向かっていて、さらにその先の未来に向かいます。過去があり、今があり、未来があるなんていうとまるで文法の時間のような話になってしまいま恐縮ですが、そうしたケジメの中を存在しています。しかし意識が変わると未来から時間が流れ込んでいることにも気づきます。しかし、過去、現在、未来はいずれにしても存在したままです。

 

さて時空を超えたら何が起こるのでしょうか。

電気、天気、元気と「気」と呼んでいるものは、目に見えていて本当は見えていないものです。そういうものは「気」です。同じ字を書いて「け」と読むと、気配は感じるというところまで来ますが、やはり見えません。どちらも感覚の世界を超えていますが、なんとなく手がかりはありそうです。

当然五次元も見えないものなのでしょうが、五次元の世界になると手がかりすらなくなってしまうのでしょうか。でも人間生活から全く分離しているということはないはずです。どういうつながり方なのでしょうか。遠い、近いはなく、過去・現在・未来もないものは想像しにくいです。

シュタイナーはすでに百年前に「二十世紀末にはコミュニケーションの技術は想像を絶するほど発達するだろうけれど、そこに心がついて行けない状況が生まれる」、と言っています。三次元、四次元までは心も一緒していたようなのですが、五次元から上は心がついてゆけない世界のことなのかもしれないと思ったのてす。心が離れてしまうという現象ってどのようなものなのでしょうか。

 

個人的には買い物が大きく変化したように感じています。私の世代の人間には物を見て買うというのが主流ですが、若夫婦を見ていると、毎日のように段ボールがどこからか届いています。カタログを見て買い物をするので、半分は返品になると言っています。できれば店員さんと話をしながら買い物をしたいと思う気持ちは確実に薄れています。

「時間がない」と彼らはよく言いますが、時間は「あるか、ないか、よりも、作るか、作らないか」だと思っていますから、時間との関わりがかわつたようです。もちろん買い物には売っている場所を見つけなければなりませんから、現代は時間と空間を生活から省こうとしていると見ていいのかもしれません。そしてひとっ飛びに、時空を超えてしまうのですが、現実味のない現実です。まるで仮想現実です。パーチャルの世界です。コンピューターでシュミレーションしているような世界が、時空に縛られた現実に取って代わったかのようです。今世の中で起こっていること全てはゲーム感覚なのではないかとゾッとしてしまうのは、私が古い人間だからなのでしょう。

現実という言葉には心がそこで生きているようです。もちろん地に足のついた五次元は現実でしょうから、今現代が知っている始まったばかりの五次元とは違いそこには心が通っているだろうと思いたいです。。

 

 

 

コメントをどうぞ