言葉のお陰様と言葉の限界
言葉は魔法使いのようだと思います。便利で多彩で重宝な道具です。ものではないですが立派な道具です。例えば全ての科学の論文は言葉で書かれています。最新の技術の成立にも言葉は欠かせなかったはずです。数学すらも言葉無しには考えられません。法律も言葉で書かれています。言論の自由は民主主義の大前提ですから民主主義も言葉です。機械の使用説明書も言葉です。さらに芸術の分野でも言葉は大活躍で、演劇を始め、詩の世界、小説、エッセイと文学はどこを見ても言葉がなかったら成立しないのです。
なぜこんなに多方面で活躍できるのか知れば知るほど不思議です。こうして見る限り言葉を超えるものは今のところ他には見当たりません。言葉に脱帽です。
さてこの言葉ですが、使われ方としては話し言葉と読み書きする言葉があります。不思議な現象は話せるからと言ってもその人が読み書きができるとは限りらないことです。話し言葉は模倣だけで獲得できるのですが、読み書きは違います。習得に大変な努力が必要です。読むのは黙読が主ですが、最近は朗読が盛んですから、書き言葉も音声として感じ取られるようになっています。書き言葉を使うようになって人間は何かが進歩したのでしょうか。私が思い浮かべるのは、知的能力が磨かれたことです。
言語能力が低下していることを指摘する人がいます。その人たちはどちらかというと書き言葉の方に、特に読解力に焦点が合わされていて、しゃべり言葉はあまり問題視しません。確かに書き言葉の読解は相当高い能力です。今言ったように知的な能力です。私の経験から言うと、外国語は読むことができるようにならないと、ただしゃべっているだけだとその言葉の全体が見えてきません。その意味から見ても、書き言葉の読解は知的作業だと言えます。また言葉を書き記すと言う知的な作業は人類史というスパンで見るとごくごく最近に出現したもので、言葉はしゃべられたものだった時間の方がずっと長いものです。書き言葉というのは、つい最近生まれたものだとすれば、逆に近い将来には消えて無くなっているかも知れないとも言えます。そのことから言うと、書き言葉の全盛期は過ぎたのかも知れません。だから言葉を読む能力もだんだんと縮小しているのかも知れないのです。
何かがなくなると、別のものが生まれます。例えば一つの感覚能力がなくなると、例えば目が見えないと他の感覚能力がそれを補おうとするものです。もっと時間をかければ別の感覚能力が生まれているかも知れないのです。書き言葉がなくなったら、何がそれを補うのでしょうか。今すでにその兆候のようなものが見えているのでしょうか。