話すことことは健康にいいことです
昔から話すは離す、放すに通じると言っていましたが、今回久しぶりに大阪の富田林での講演会でたっぷりと二時間を二回話して、ますます実感しました。
人間の頭の中というのは想念が渦巻いているところで、1日に換算すると数万もの思い、想いが頭の中で、生まれては消え、を繰り返しているということです。私はもっと多いかもしれません。
そんな想念ですが、本当に消えてくれればいいのですが、どうやらその幾つかはうまく消えずに残っているような気がします。さらにそれらは案外しつこく居残っていることがあり、そういうものが私のブログのテーマになっています。
今回の富田林のテーマは言葉でした。このテーマは振り返ると繰り返しテーマにしてきたもので、実際にいつも考えていると言ってもいいくらいのものですから頭の中に沈殿しているものも多く、こういう機会をいただいて思いっきり吐き出すことができるのは実にありがたいのです。
今回は言葉の奥にある沈黙のことにも触れなが話すつもりで講演を始めました。とは言っても始める最初の二、三分くらいしか準備をしていないので、その後の話しは船出をしてしまった講演ということで、もう私がコントロールできるものではなくなっていて、「向こう任せ」で話し続けるしかないのです。
このようなことを聞くと、聞き手の人は「なんと無責任なことを」と思われるかもしれませんが、私としては、無責任どころか、私が何年も蓄積してきたことなので、責任以上の手応えを持って話しています。ただ話の流れの手綱は私が意図して引いているのではなく、今言ったように「向こう任せ」だということです。
小説などは無理にストーリを書き手が決めてしまうと、頭でこね回したつまらないものになり、大体は失敗作の部類に入ってしまいます。書いている人間が自分で驚くようなものが書けると、読者も面白く読んでくれるのではないかと思っています。
話しているときに、私の中で燻っていたものが、時にはイメージとして、時には言葉として湧き上がってきます。それを追いかけるように言葉でつなげて行くのが私がしている講演という作業です。学者さんたちのように勉強してまとめたものを報告するというのではなく、今生まれたばかりのことを皆さんにお話ししているので、内容は取り立ての野菜のように新鮮だと思っています。その上私にとっても意外だったりして、自分でワクワクしていることもありますから、聞いている人たちもきっとワクワク聞いてくださっていると思っています。
私はこういう、話す、離す、放す機会を多くの人が持てばいいて願っているのですが、苦手にしている人の方が多いようです。大抵は話す時に、前もって話すことをまとめてしまうようなので、私の立場から見ると、それでは話していることにはならないような気がします。放す、離す、話すのは勇気がいるものです。無責任なことは言えないという気負いがあるとできません。どうせ大したことなど言えるわけがないと、気負わないことです。ところが私が大したことだと思っていることというのは、案外他の人にとってつまらないことだったりするのです。私の中から自然に出てきた言葉のようなものの方が、聞き手の多くに届いているものなのです。