静止した音楽を聴く
音楽は音の動き、音の流れです。
なぜこんなしち面倒臭いことを言うのかというと、今まで聴いた音楽の中にイメージの中で静止していると言いたくなる音楽があったからです。もちろんイメージ的な話です。
その一つはシューベルトのピアノソナタ十八番ト長調D894がそれです。
この作品は始まりから三小節を同じ和音がタイで繋がれていて、弾き手を大いに困らせます。私が期待するようにたっぷり三小節を伸ばしてくれる演奏にはなかなか巡り会えません。ほとんどの人がこの長い和音を急いでしまい、三小節にまたがる全音符を弾き切ることなく次の音を弾いてしまいます。
全音符からなる和音を三小節、ピアノで弾くのが難しいのは、ピアノという打弦楽器は一度音を弾いたら消えてしまうためです。三小節の全音符を弾くとは言っても、実際には一度しか弾けず、残りの時間はペダルを使うか、弾いた鍵盤を押さえて置いたたままにするのです。つまりその間演奏者といえども自分で弾いた音を聴き続けていなければならないわけで、この曲の冒頭は弾くより聴く作業なので、音楽の基本中の基本、聴くことが試されるわけです。
この冒頭を聴いていると、イメージの中の話しですが、音が静止しているようなのです。だからと言って止まっているのかと言うとそうではなく、音は凝縮したエネルギーとして存在していて聞き手を惹きつけています。今お話ししたことが体験できるのは後にも先にもこの作品だけで、しかもロシアのピアニスト、リヒテルの演奏を通してだけです。他の演奏家は待ちきれずに次の和音を弾いてしまいます。そうなるとこの作品は神聖な方を崩してしまい、他の音楽のように前へまえへと進んでいって、聞こえる音が流れ始めます。しかしそのように演奏してはシューベルトが意図したものが台無しになってしまうので、自ずとリヒテルの演奏しか聞けなくなってしまいます。
リヒテルという演奏家には何度となく衝撃的な演奏を聴かせてもらいました。それらの驚きを支えていたのは、音楽は聴くことから始まると言う基本姿勢だったようです。