直線と曲線))
シュタイナー学校に入学した最初の日に子ども達が学ぶことがあります。このことを思うと、私個人的には、偉大なるシュタイナーという感じです。
先生が黒板に直線と曲線(半円)をゆっくりと書きます。これがシュタイナー教育の原点です。もちろんそれを見ている一年生はなんのことか全くわからず、口をぽかんと開けて見ているだけです。でもそれは世界の謎を解く鍵なのです。
直線は思考、曲線は意志という言い方をします。最近はこの二つが包括するものがどんどん大きなものになって行っています。
スポーツの動きと日常生活の動きの違いもその一つです。
スポーツに動きはつきものです。逆に動くためにスポーツをすると言う人もいます。そのスポーツの動きを見ていて、健全でないような動きが多く気になって仕方がないのです。極端な直線的な動きと言っておきます。
私にとってもう一つの動きは日常生活の動きです。庭仕事や、掃除や洗濯、食事の支度と後片付け、こういった些細な動き、ほとんどが意識できないでいるような些細な動きです。これをあえて曲線的な動きと見たいのです。曲線とは常に向かう方向が変化している動きのことです。
日常生活の自然な動きからすると、スポーツは不自然な人工的な、機械的な動きの集まりです。百メートル競走のように直線を走るからと言うだけでなく、サッカーのボールを追っている動き、バレーボール、バドミントン、バスケットは、私には直線的なうごに見えるのです。直線的に私たちが動かされている様に見えるのです。目的のためにだけ動いている動きです。
これは社会現象にも結び付きます。今までの社会というのも、よくよくみると直線的な社会を作ろうとしているのではないのでしょうか。営業目標や目的のため、しかも近視的な目的のためにがむしゃらに頑張る社会です。むしろそのために振り回されている様に見えます。就職したら定年まで勤め切ると言う姿勢は今では崩れてしまいました。大手の会社も安泰ではない社会です。直線と曲線をうまく使えこなせないと生き延びられないような社会です。
スポーツの話に戻ると、スポーツに勝ち負けがあるのはなぜなのかも気になります。きっと目的を明確にするためでしょう。目標を立てて練習する、しかも合理的な効果のある練習です。目標は大事なものですが、ただ目標のためというのは、極めて単純で直線的ですし、機械的です。
曲線的な生き方というのはくねくねと曲がった、優柔不断なものかもしれません。すぐに飽きて、絶えず新しい目標に振り回されるのかもしれません。根性のない奴らです。なんの役にも立たないことをしているかもしれません。しかしそれがダメな人生に見えてしまうのは、私たちがあまりリリに直線的に生きることになれてしまっているからに過ぎないのではないか、そんなふうに考えます。