意味の意味
人と話をしてる時に、「それはどう言う意味ですか」と聞かれると大抵の場合答えられません。無知だからと言うこともあるのでしょうが、意味なんかないと思っているからです。答えることに躊躇していると、迷惑がられてしまいます。
意味は最終的結論のようなもので、そこにプロセスはないので、一生を終えた人の死体のようなものなのです。一生はその人が死んでみないとわからないものです。私の母はよく「人って最後までわからないものよ」と言っていました。結論が出ていない人生はプロセスの中にあるので、いつどのように変化するかわからないと言うことを、長い人生の中で色々と見て来たのかもしれません。
意味というのは死んでいると言うことが大事なのに、そのことに気付こうともせず、今の時代はとにかく意味が求められるのです。
今日友人とトルコ料理屋さんに行きました。もちろんトルコ料理を食べに行ったのですが、メニューを見ても食べたいものが見つからず、羊のスペアリープを食べました。食べ終わると必ず聞かれる「美味しかったか」が今日も来て、社交辞令として「美味しかった」と答えますが、心の中では「そんなこと聞かないでくれ」と叫んでいるのです。
私は食べたものが、美味しいかどうかがわからないのです。美味しく食べた、料理が珍しくて楽しかった、味付けが変わっていたとか言うことはなんとでも言いようがあるのですか、「美味しかったですか」はだめです。こんな死んだ問いには答えられないのです。だから社交辞令という死んだ対応しかできないのです。
ドイツでレストランに入って食べることはほとんどしなくなってしまいました。コロナがどうのこうと言うのではなく、料理に意味だけが付き纏っているからだと思います。レストランの方針自体が、生きた食事を提供するという気持ちを持っているのかと疑ってしまいます。日本のように料理そのものに料理した人が見つけた味覚が隠されていて、それを食べながら楽しむと言うようなレベルではなく、半ば出来合いの料理が出てくるので、それを味わい尽くしてやろうなんて勢いは削がれてしまいます。正直何を食べても同じような気がして、レストランで食べることから遠ざかってしまったのです。
意味のことを死んだものだと言いたいのですが、うまく通じていないのではと心配しています。しかし意味というのは、哲学、言語学、心理学などで色々に論じられているのですが、的を得ないものばかりです。私には「意味はそもそも死んだものだ」と言う観点を避けて通っているからにしか見えないのです。
意味だけでなく、世の中には生きたような顔をした死体がゴロゴロしているものです。それは私たちが知性を拠り所に生きるようになってしまったからなのです。
あえて言いますが、生きているものはプロセスの中にあるのです。一刻一刻どうなるかわからないようなワクワクしたものの中にあるのです。生きていると言うのはこ答えがあるものではなく、どうなるのかわからない未知数の動きなのです。
ぜひ人生を死んだものにしないで、ワクワクした生きたものにしていただきたいと思います。人生に意味なんかないのです。