記憶の次は
記憶力というと普通は覚えておく能力で、たくさん知っていると言うのが目安となります。しかし記憶というものは、覚える・忘れる・思い出すと三ステップからなるものですから、覚えておくだけを取り上げても意味がないものです。実際に覚えておくことに突出したサガン症候群というものもあります。
しかしシュタイナーの世界に入ると、記憶のなかの「忘れる能力」と深く付き合うことになります。忘れるというのは立派な能力だというのです。覚えておくという、いわば固めてしまう方向ではなく、忘れるという溶ける方に注目しているのです。教育もその点から見られています。
実は忘れると言うのは人間に特有のもので、動物の場合、長く覚えているということが注目されますが、見方を変えれば忘れられずに固まって長く残っているのだとも言えるのです。忘れた量などとは言わないもので、数値的に表せなという特徴があります。どれだけ覚えたかは測れても、どれだけ忘れたかは測れないものです。「シュタイナー教育は忘れることを教える教育です」などと言って質問者を煙に巻いたりしたこともあります。記憶の三つ目の思い出すというのは、この忘れるというプロセス抜きには考えられないものだとすると、忘れるというのは隅におけないものと言えそうです。
覚えておくというのが固めるというものと親近性を持っているとすると、忘れるはほぐして行くというプロセスです。リラックスとも言えます。講演で、「今お話ししたことはしっかり覚えてお帰りください」なんて聴衆に言おうものならその一瞬、体をこわばらせるかもしれません。一方「今聞かれたことは忘れられても構いません。いずれ必要な時に出てくるものです」といえばゆったりと引き続き話を聞かれるのではないのでしょうか。
今でもよく分かっていないのは、せっかく覚えたものを忘れている時のことです。そのものはどこに行ってしまったのかということです。消えてなくなっているようです。コンピューターでは保存しておく訳ですが、人間にもそのような保存場所というのがあって、プールでき、そこに溜めておいているのでしょうか。そのプールは肉体的には存在していないようなのです。解剖しても見つかりません。
そうすると肉体外ということになり、シユタイナーはエーテル体を持ち出します。エーテル体は別名記憶体なのです。しかし今の医学では解剖してもエーテル体は出てこないので、ないものとなっていますから、記憶がどこにプールされているのかは言い当てられないのです。エーテル体なんて眉唾だと思うか、そうかそういうものがあるのかで道が分かれます。ないという道を選ぶとすぐに行き止まりです。あるとすると話は続きます。
プールされている場所?がエーテル体だとしてもやはりプールされているには変わりがありません。話を次の「思い出すという能力」に持ってゆきたいので、エーテルにプールされている様子はまたの機会にゆずり、思い出すという能力です。
昔から思い出すというのがとても不思議で、どこからどのようにして出た来るのか知りたくて仕方ありませんでした。深い話は置いておいて、現象的に見ると、思い出している時をスローモーションで見たとすると、とても嬉しそうにしている姿が見えてきます。思い出すというのは、嬉しくて嬉しくて仕方がないものなのです。笑顔ではち切れんばかりです。身体中が光り輝いています。そして思い出すというのは元気の源でもあるのです。歳をとってくると昔のことを思い出して話をするものです。しかも周囲から迷惑がられるほどしつこく繰り返します。しかし当の本人にしてみると、思い出しながら話をしているとことが嬉しくて仕方がないのです。
日常でも、どこに置いたのか忘れてしまった鍵やお財布のことを思い出した時には、身体中が輝いているものです。思い出させている能力は「意志」の力です。この意志も心理学、医学、脳生理学などがお手上げのものです。
エーテルだと意志だとかいうものがシュタイナーの教育ではキーポイントになります。それだけを取り上げれば難しいものとなりますが、しかしシュタイナーが示唆した授業法の中にたくさんのピントがあると考えています。ただ授業法をレシピにしてしまうと、遠い目標であるエーテルや意志のことが置きざれにされしまうこともありますから要注意です。シュタイナー教育の道のりはまだまだ続いているのです。、