箸休め。マッテオ・サルバドールについて

2023年9月19日

マッテオ・サルバドールという歌い手のことを日本で知る人はいないと思います。正真正銘のイタリアの歌手です。

とは言っても朗々と歌うオペラ歌手でもなく、カンツォーネの歌手でもなく、ジャンル分けすればフークロール、民謡歌手いうことになるようですが、彼の歌を聴いているとそれで言い尽くせるものではない歌を歌う非常に稀有な歌い手だということがすぐわかります。どのジャンルにも属さないというのが多々しいのかもしれません。

南イタリアのアプリ地方のアプリセナという町で生まれます。あまりの貧しさに小学校にも行かないでいるところを、盲目のヴァイオリンを弾いて歌う「ながし」に拾われ、寝起きを共にしながら彼のもとで150ほどのギターで歌う曲を伝授されます。

この歌と歌い方が隅に置けないとんでもないものなのです。彼ら二人が歌う歌はは13世紀からこの地方で歌い続けられていたもので、それがのちに歴史考証によって吟遊詩人たちの歌に通じているのではないかということになるのです。

サルヴァドールが20歳になった時、親代わりでもあり、音楽の師匠であり、歌を一緒に歌い続けた相棒がなくなります。彼の死後途方に暮れる中、五日間歩いてローマに行くことを思い立ちます。ローマで、場末のレストランなどで「ながし」として歌い始めます。初めは珍しいと受け止められた程度でしたがだんだんと評判になり、識者の中にこの音楽がかつての吟遊詩人の流れを汲む特別なものだという者が現れ、新聞やラジオで取り上げられるようになり、一躍有名になります。「河原乞食のながし」から一躍スターになったのです。

 

イタリアの歌手というと郎朗と歌うオペラ歌手を思い浮かべる人もいるでしょうが、マッテオ・サルバドールの歌はその手のものとは全く別物で、囁くような歌い方です。カンツォーネのように声を張り上げて歌うものでもありません。そんなことをしたらうるさくて、近くで聞いているお客さんが迷惑してしまいます。

盲目のおじいさんから伝授された歌い方は、全く主張をしない語るような、囁くような歌ですから、無闇に大声を張り上げるようなことは一切なく、たとえ大きな声で歌うことがあっても、それは押し付けがましいところが全くない訓練された繊細なもので、聞いていて気持ちがいいだけです。

これが吟遊詩人たちによって歌われていたのかと思いながら聴いていると、不思議なタイムスリップを感じます。と同時に、彼が歌う歌の中には、今日に伝わっている色々な音楽が原石としてあるようにも思えて仕方ないのです。ある時グスタフ・マーラーのシンフォニーを聞いていて、サルバドールの歌みたいだと思ったことがあるほどです。

高い音域を歌うとき、ファルセットをして声を引きます。これは相当難しい技術で、これで歌うと倍音がよく響き柔らかい歌になります。耳障りのいいピアニッシモが生まれ、聞き手を魅了します。音量からすればごくごく小さいものですが驚くほど脱力した声で歌われる、しなやかな歌はどこまでも響きます。

サルバドールは幼い子どもの頃におじいさんと出会い、おじいさんから徹底的にこの所を仕込まれたようです。彼が七歳でおじいさんと出会ったことが幸いしています。ほとんど模倣の力でおじいさんのなかで生きていた尊いヨーロッパの伝統を教えを受け取れたのです。

もう一つ楽しいのが、彼らが路上でお客さんを集めて歌うときの前に行う「口上」です。イタリア語の美しさが聞かれます。単なるパフォーマンスではない、「ながしの乞食さん」がその日の食いぶちを稼ぐために必死に客集めをする様子が見えるような、粋のいい正真正銘の「口上」です。隅から隅まで本物の「乞食の口上」で、純粋な芸術品です。

ミヒャエル・エンデさんがよくローマの片隅で、乞食さんたちが口上まじりでお話を聞かせているのを聞いたと話してくれたことがあります。ドイツにはそうした伝統がないのが寂しいと言っていました。そして「モモ」や「はてしない物語」や「ジムボタン」などもああやって路上で、口上交じりに楽しそうに話してもらえたらいいのにと言ってました。役者でもあったエンデさんには語ることの中に生きている生き生きとした言葉の命が感じられたのかもしれません。

Matteo Salvatore で検索して、色々と聞いてみてください。

 

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