意志を評価するとは

2023年9月25日

ある人を「あの人は頭のいい人だ」とか「優秀な人だ」というのは一目瞭然のようなところがあるのですが、意志の領域に入ると評価するための言葉すら見つからないというていたらくです。「意志の強い人だ」というとガッツがあり、実行力があるという意味になりますから、意志とは直接関係ない、どちらかというと昔からの根性のようなニュワンスを感じさせますから、私たちが理解したい意志とは少し違うようです。

意志は言葉にして定義すらできないものなのです。

そうは言っても、なんとかしたいものではあります。

意志のある人、意志の強い人、意志の優れた人と言っていいのかどうかも定かでないのですが、そういうのはどういう人なのでしょう。

私は、知的に優れた人の中に優れた意志が働いていると考えています。つまり知性とは言っても、知的能力だけで知性になるものではないからです。思考の中に意志ははたっぷり働いています。思考を持続させる力は意志の力によるものです。そうでないと思いつきの連続で考えはまとまらないものです。持続は意志からの援助がないと成立しないと思います。昨日の音楽の話と関連づけると、音楽というのは音が繋がるから成立するので、そこには確実に意志が働いていると言っていいのだと思います。いい演奏ほど繋がりを感じさせます。音楽用語で言うとレガートな演奏ということになります。頭で音楽しているというのか、知的に演奏されているのは角ばっていてボソボソしていて味気のないものです。

人付き合いなんかでも、角張った、ギスギスしたものは頂けないものですが、シュタイナーが人間との出会い、人間が周囲と出会えるのは意志の力によるというのは、そんな時に少し理解できます。意志の力がなかったら、人間は周囲と出会うことができないのです。人間関係も作れないのです。組織の話ではなく、生身の人間同士が出会うということです。逆に組織化された社会は意志が弱体化したものと言えるのかもしれません。

教育という単純な仕事を見栄え良くするために、イヴェント的なことがなされます。様々な行事があることはそれなりに意味があるのでしょうが、教育の基本は淡々とながれている日常生活の中にあると思っています。まさに単純な繰り返しの連続です。外から見れば驚くほど単純で退屈な繰り返しなのでしょうが、教育を支えている最大の力はその単純な持続なのではないのでしょうか。私はよく家庭料理の話をします。毎日たんだんと食べるものです。グルメのような特別な派手な料理が食卓に出てくるものではないのですが、昨日もたべ、今日も食べ、また明日も食べられるという、異次元の代物です。そんな家庭料理の中に意志の力を感じます。この家庭料理を支えている力によって、子どもは生活の中の意志の力を感じ取っているのだと信じたいのです。

意志の力は派手に見えるものではないですが、確実に私たちの実生活の中で、私たちを支えている力のようです。

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