モーツアァルトからハイドンへ

2023年11月12日

若いときはモーツァルトの音楽に夢中でした。その頃は朝起きてから一日モーツアルトばかり聞いていました。三度の飯より音楽で生きていました。

もちろんつまみ食い程度に、ベートーヴェンやハイドンやといった、古典的な他の音楽も聞いていましたが、当時の私を満足させるものではなかったのです。モーツァルトのどこがそんなに私を魅了していたのかといえば、透明感でした。当時は若かったので「純粋な」どいう大人びた感覚では聞いていなかったと思います。とにかくモーツァルトは限りなく憂いを伴った透明な音楽でした。暗く重っ苦しい思春期の鬱憤を晴らしていたのかもしれません。そこに救いでも求めていたのでしょう。

その頃ハイドンの音楽は他のものと比べると比較的多くつまみ食いしていたのですが、ハイドンの音楽は当時土臭く、垢抜けないものに聞こえていたようです。いささかやぼったかったのを思い出します。モーツァルトによく似ていると思いながらも深入りできない何かがありました。

しかし今は少し様相が変わってきていて、何かにつけてハイドンを聞いてしまいます。今回の日本滞在は実家の片付けが智勇心で肉体的にハードな毎日でしたから、その合間に横になってハイドンのメロディーに耳けることが多かったのです。

いま聞くハイドンは野暮ったいどころか、懐かしささえ感じられ、しみじみと実生活からの疲れをほぐしてくれます。土臭さだったものにバランスのいい現実感すら感じてしまうのです。そしてなんと、時折聞くモーツァルトが昔と違って抽象的なものに聞こえ、冷たさのようなものに変わっているのです。

特にハイドンの若い時の方がリアルな感じがして好みです。後期の作品は、後から出てきたモーツァルトやベートーヴェンと張り合っているのでしょうか、本来のハイドンから離れていってしまっているような気がします。

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