自我を持つ弱み
よく感じるのは、他人があって初めて自分があるのかもしれないということです。絶対的な自分というのが見えてこないのです。
だからと言って他人を気にしすぎているとも思わないのですが、私を含め人間というのは自分だけで自分を感じることはできない生き物なのかもしれないと思っています。つまり自分というのは、生きていながら経験したものの集積によって作られるもので、他人との比較を持たずにはあり得ないものなのかもしれない、そんなことを考えるのです。自分というのは、ある意味では錯覚かもしれないとも考えます。
初めから難しいことを言ってしまいましたが、前回書いたブログの自我のことを読み返してみたら自我というものがいかにも不確かなものに見えてきたのです。
自我とはそんな不確かなものなのだと済ませられればいいのですが、人間とはこんなにも不安定なものなんだと、自我の弱さを思い知らされてしまうと辛いものです。
だからそこを庇うために何かの手段を使って、あたかも自分があるかのような錯覚を作り出しその中に居たいのでしよう。占い、心理学、バイオグラフィーの様なものも自我の弱さの裏返しかもしれません。人生に意味を見つけ出さなければならない人も、そこで見つけた意味に頼っているのでしょうからよく似ています。人間は自我に気づいた時から自我に振り回される様になったのでしょう。もしかしたら宗教も同じところに位置しているものかもしれません。
人間は自我を持った存在だということが自信につながることってあるのでしょうか。
私はないと考える一人です。というのは、自我を持ったことから生まれる弱みこそが、自我を持つ強みに変わる要因だと思うからです。自我があるからって単純に自信につながったら、それは単なる自惚に過ぎないものですから、それを売り物にする様なものがあれば相当危険です。危険思想かもしれません。
意外と多くの人がこの落とし穴に落ちているものです。