練習と本番
先日のポーランド系カナダの青年ピアニスト、ヤン・リシエツキの演奏を聞いていた時に、ふと「この青年は、いま本番でも練習しているのかもしれない」と思ったのです。演奏の質の高さを思えばもちろん猛練習して本番に向かっているはずなのですが、それでも彼の演奏はさっきまで練習してきたものを舞台で披露しているというスタイルではなく、聴衆を前にした音楽会ですからもが、練習の時間なのではないかと思ったのです。
というのは私も講演をするときによく「今日の講演は明日の講演の準備です」と言っていたからです。多分わかりにくいと思うのですが、勉強してまとめたものを講演会でお話しするというスタイルを私は取らずに千回以上講演してきました。もまとまってものをろん初めからそのようにしようとは考えていませんでした。初めのことろは整理して皆さんにお話ししているだけでした。ある時「それでは講演していてもつまらないのだ」と感じたのです。今喋っていることは全て今までに考えたことでしかないからです。過去を引き摺っているだけで、今と、明日からが抜けでいるのです。未知に向かうワクワク感がないのです。
講演は人によってスタイルがずいぶん違いますが、私の場合は講演していると、多くのことが浮かんだりするのです。そんな時は「そうだったのか」と内心ワクワクしたりしていることがあります。それと会場の雰囲気の中に今日喋ることが蠢いているようにも感じるのです。聴衆が何かを持ってこの会場にいるということが、とても大きな意味を持っているのです。それを無視しては今日の講演会の意味は半減されてしまいます。まさに人の顔を見ながら講演をしていると、いろいろなことが思い浮かんでくるという訳です。
音楽の演奏も同じで、練習したものを披露するだけでは物足りないものです。今を演奏するということも音楽会をイキイキしたものにするためには大切なことのように思うのです。
ライアーのワークショップなででは、練習はしすぎないでくださいと口癖のように言っていました。音楽が硬くなってしまうと懸念していたからです。練習は大切ですが、しすぎないことが大事です。過ぎたるは及ばざるにすぎずです。
頃合いをどころに見つけるのかは難しいものですが、基本的には今のAIブームの中で、お勉強に費やされたエネルギーが方向を変えていることも同じだと思うのです。かつての産業革命の時はブルーカラーが機械の出現により職を失ってゆきました。今はお勉強をしてきたホワイトカラーが職を失うのです。高学歴の面々がAIに押されて居場所がなくなってしまうのです。人間が勉強してかき集めた知識の何十倍何百倍という知識がAIの中には蓄えられています。太刀打ちできないのです。AIの出現は一生懸命勉強する人たちへの警告でもあると思っています。
小さい頃から練習したり、塾に通って猛烈に勉強することで周囲から評価される時代はそろそろ崩れ去る時期に差し掛かっているのかもしれません。演奏者も聞き手もこれからは違う感性で演奏し、受け止めることができるようになって行くのだと信じています。即興的な要素と言っていいのかもしれません。