万国共通語
バベルの塔が崩壊して、それまで一つだった言葉がバラバラになってしまいました。それ以降、民族によって別々の言葉を話すようになったというのが旧約聖書に書かれいます。
そのバラバラになった言葉が今やコンピューターの翻訳機能によって一つにまとまったような感があります。Caht GPTという裏技を使えばどんな言語で書いても、どんな言葉にでも翻訳できるそうで、これを使えは言葉の壁は乗り越えられる訳です。ただ世界中で一つの言葉が話されるというのとは違います。
そこを生きている私たちにとって外国語を学ぶ必然性はあるのでしょうか。もちろんそれ以前とは違っているはずのような気がするのです。基本的には苦労して外国語を学ばなくても翻訳機が勝手にやってくれる訳です。ただそれが正しく翻訳されたのかどうかは、確認しようがないですが、翻訳機の性能を知れば、間違いなく翻訳されていると信じていいと思います。
いいのか悪いのかは別にしてこういう時代に生きているのです。辞書を片手に外国語の勉強をした一昔前の姿ですから、そういう姿は石器時代の人が石を削って刃物を作ったようなものに映るはずです。
ひと昔ほど前は外国語を勉強することの意味の一つは、外国語を通して自分が喋っている言葉を磨くということでした。外国語ができるようになるためには、自分の言葉をどこまで理解しているのか、使いこなせているのかが大切なことでした。また二つの言葉の使い方の違いに気がつくと、その面白さから自分の言葉に表現の幅がてきたということもあります。
外国語を翻訳することと街区後に翻訳かることがコンピューター任せで済んでしまうということは、自国語を磨く場が一つ減ったということになります。自国語なんて読書や、デスカッションを通しても学べるものというのも事実ですから、外国語を通してというのは単なるノスタルジックな思い込みなのかも知れません。
私がこのような状況を踏まえて危惧することの一つは、言葉が「一般的に正しく訳されている」というレベルで語られてしまうということです。例えば今テレビの世界で話題になっている源氏物語の作者、紫式部のことはを考えてみます。彼女の書いた源氏物語は、現代語訳だけても九つあるのです。何が違うのかは読んでみてのお楽しみですが、役したいという衝動に駆られた人がそれだけいるということです。しかも相当の数の外国語で読むことができるのです。みなさん大変な苦労をされて翻訳された訳ですが、これからは様子が少し違います。翻訳を本にすまでにかかる時間はというと、翻訳は一瞬でできてしまうでしょうから、印刷する時間と製本する時間を見るだけで足りてしまうようなものです。
ただ事実を冷たい目で見れば、コンピューターは統計的に間違いのない翻訳をしただけで、コンピュータ自身は自分で良い翻訳をしたかどうかすらも自覚がないのです。私などはそこのところを知ってしまうと、そのような翻訳は読む気がしなくなってしまいます。
今日はまだ時差ぼけで頭が回らないのでここまでしておきます。