ユーモアと直感
ユーモアは私たちの周りに満ち満ちている空気の様なものではないかと思っています。それなのに、あまりにも知らずに生きています。空気のように吸い込めばいいだけなのに、そこがうまくゆかないと言うのはどうしてなのか考えてしまいます。もちろん口から吸い込むことはできないですが、皮膚呼吸のように皮膚から吸い込むことはできるはずです。
普段は気づかないで吸っているので、体に入ってきたことに気づかずにいるのでしょうがもったいない話です。ユーモアをたくさん吸い込むと体がほぐれ暖かくなり、軽くなります。
現代人は体が力んでいて、固まっていますから、ユーモアは体に入ってきてはくれません。せっかくのユーモアとの関係を切ってしまっていると言う訳で、かえすがえすももったいない話です。
体が固まってしまう原因の一つは頭を使いすぎると言うことでしょう。しかも無駄なことで使いすぎている様です。そうなるとユーモアは切れてしまうのです。頭というのは実生活でも大切な働きをしているのですが、間違って使いすぎると体を硬くしてしまうからです。
私が大病をした時には、再生不良性貧血と診断されましたが、それが顕著だった様です。倒れる前まではしきりに頭を酷使していて、まあ理屈の世界に溺れていたのです。クリアーになったものもあるのでしょうが、体は固まってしまい、その結果冷え切っていた様です。そして体の中で血が作られなくなっていたのです。造血と言うのは実は体の中での一番繊細な新陳代謝だと医者に言われたことを思い出します。
今回「ヤドリキと欠伸」と言うタイトルで本にした中に、体の硬直とそれをほぐすことから生まれる欠伸のことを書きましたが、その時は欠伸など出ていなかった様です。
入退院を繰り返して、しばらく経った時のことです。少しは体が楽になった頃です。森を散歩したのです。とても爽やかな5月のことでした。風が体の中を通り過ぎる感覚を持ったのです。風は気持ちよく体を抜けて行きました。その時、今まで体がこんなにも固まっていたのかと自覚したのです。体の中にギュッと詰まっていたものが風の力といっしょに体から出ていってしまった様な感じでした。もしかしたら風の力で溶かされてしまったのかもしれません。その後の清々しかったことと言ったら、生まれて初めて体験するものでした。その後の透明感は格別でした。
この体験があって、私にはユーモアというものも風のように体を通り抜けているのではないか、そして通り抜ける時に体の中で固まったものが溶かされるのではないかと思うようになったのです。
ユーモアは直感に似ているものと今は考えています。直感はキリキリと頭を酷使している時には降りてきません。体が程よくほぐれないと降りてこないのです。極論すると頭で考えることをやめると直感は降りてくるのです。直感で得たものは、思考からすると根拠のないものがほとんどです。思考という過去の経験の集大成の様なものからでは説明できないからです。直感は未来を志向しているのです。
ユーモアと直感には共通しているところがあり今すぐ何かの役に立つものではないのですが、時間の流れをほぐしてくれるものと言っていいかもしれません。