遊びの本質 その五
遊びと勉強という二つを善玉悪玉と様に対峙させてしまったかもしれないので、そこを説明しておこうと思います。
勉強するというのはそのものとしては人間を育てているものです。勉強するから知識が増えて行きます。知識を持っていることは生きて行く上で役に立つものです。
勉強もろくにしないで、何も知らないで居るなんて、人生もったいないと思います。いろんなことに興味があって、知識欲がいきいきとしている人は、魅力的な人です。話しをしていても、話題に尽きることのない人というのは面白いし、またお会いしたくなります。
ところが、知識とは別の次元のものが人生にはあるのです。そのことも一度は考えていいのではないかと思います。
知識に対峙させて、知恵と言ういい方をよく耳にします。
智恵と言うのは、人生の経験がしみ込んでいます。そしてそこでの体験もです。失敗したり、上手くいったりと、さまざまな人生模様がそこにはあります。
日本の知恵と言うのは、日本人という民族がはぐくんだ物ということです。日本的個性と言ってもいいはずです。
知識は人事であることが多いですが、智恵は自分事です。自分で責任が取れるものだと言えます。哲学的ないい方では認識と言います。認識は知識と言う他人事を自分の人生で消化したものです。
遊びというのはだらだらして、どうしようもない人がするものというイメージがあり、そこを違う観点から見たいということで、すこし力みすぎたかもしれませんが、今の時代の知的偏重は、すこしぐらい強調したくらいでは崩せそうにはありませんから、意識的に力んだと言って置きます。
知識から認識への道中に遊び心があります。別のいい方をします。
それは余裕です。認識には余裕が下敷きになっています。
認識にまで熟したことを人に話すと、その話しはとても影響力を持っているものです。
遊び心、余裕が何故人の心を動かす力になるのかと言うと、そこに心の共感する力が働いているからです。
直観というのはこの共感の上等なものだと言ってもいい様な気がします。
どの人間の中にも物事に共感する力と、反感する力の両方があります。
好きと嫌いです。誰もが持っているものです。
勿論好き嫌いがあまりに極端に表に出ては大人げないものですから、極端なケースはあまり見られません。
えてしていえることは、勉強好きで頭のいい人というのは、冷たいところがあります。知的傾向は心の中に冷たさを作ります。物事を考える、これは知性的にしなければならないので、考えるという作業は、いつも冷たい作業です。あまり考えてばかりいると体が冷えてしまいます。いろいろなケースでみなさんも経験されていると思います。
今学校で行われている様な教育方法、まさに知的偏重の教育がこのまま助長されて行ってしまうと、たぶん、将来、冷たい人間ばかりが育ってしまいます。みんな賢く、物事をよくわきまえていたとします。そう言う人が集まって社会を作ったとします。全てが整然としていて寸分の隙もないような社会です。管理社会というのはそう言う傾向の中で生まれているものでしょう。そんな人ばかりが集まってもいい社会とは言えないのです。
遊びを大きく取り上げるのは、遊びの中で人間は共感をはぐくんでいるからです。
勉強も遊び心でやったらそれは素晴らしいです。しかし遊び心で勉強するといわゆる試験体制の中でははじき出されてしまうかもしれません。寄り道を随分してしまいますから時間がかかるのです。調べていることがすぐに結果とし出て来るわけではないですから。本当はそう言うものだと思うのですが・・
遊びは共感を育てる、ここが大切です。遊びというよりも遊び心です。
遊んでいる時の集中力です。今自分がやっていること、そこにまい進し、没頭します。これが人間が共感している姿です。遊びが大事なのはここのところです。
いやな勉強をしていると心はすり減ってしまいます。解らないというのは遊んでいてもいろいろ出て来ます。しかしその解らないことが遊びの中では楽しみでもあるのですが、外から与えられている課題、勉強的な解らないはほとんどが苦しみです。それは心を傷つけているかもしれません。
どんなことでもいいのですが、夢中になっている時人間は温かいです。どこからくるのかと言うと意欲からです。それはシュタイナーの中では意志と呼ばれているものです。遊んでいる時のわからないということがあっても、遊んでいる時は夢中でそこに向かって行きます。前進しています。その時人間の体の中には熱が生じます。もちろん体温とも関係しています。
余談ですが、最近の子どもたちの体温低下は、勉強に疲れている体が発信している警告かもしれません。
遊んでいる時の子どもの目もらんらんと輝いています。何かに向かっている時の人間の姿です。遊んでいる時の相手は敵ではなく味方です。心を許し全身でその中に入って行きます。疑っている人の目は厳しく、冷たいですが、信じている人の目は温かくやさしいです。
かつてゆとりの教育といっていた時がありますが、遊びはこのゆとりとは違います。遊びは真剣ですし、一生懸命です。外から強制されて何かをしている時以上に、遊び心で仕事に向かっている時、仕事はずっとはかどっているはずです。
一生懸命というのは遊びの中でも随時行われています。だらだらと、ゆとりで遊んでいるなんて考えられません。一生懸命はそれ自体がとても大切なことですが、外から与えられた目標にただ一生懸命になる時は、その人を一面的な人間にしてしまいます。
自分の中から自分の目標を発信して、それをがむしゃらにやっている時、外からは一生懸命で大変そうだと見えても、本人はそんなことを考える暇が無いほど楽しくやっているものです。