日常生活の偉大さ
人間の日常生活はごくごく当たり前のつまらないもののように見えますが、実際は想像を絶するほど奥の深いもので、知力では人間を上回ったと噂されるAIですら、現時点では未だお手上げの状態と言っていいあり様です。未だと言いましたが、もしかするとこの先しばらく続くかもしれないとさえ思っています。
AIによって日常生活の持つ偉大さが浮き彫りになったと言えるのかもしれません。そこに焦点を当ててみようと思います。
私は日常生活とイヴェント的生活を対比させて考えています。日常生活は母性的で、イヴェント的なものは父性的という具合にです。家庭内でも母親に支えられている日常と、父親が得意とするイヴェント的非日常とが対比しているのではないのでしょうか。母親は掃除、洗濯、料理とごく平凡な目立たない仕事に明け暮れ、父親は美味しいものを食べに外食に連れて行ったり、公園やディズニラントのようなところに連れ出し、そこで大いに得点を稼いでいるのですが、母親の毎日には点数がつかないのです。
食べて、飲んで、寝てというだけで一生が終始して仕舞えば、人生はつまらないものですから、それを超えたものが必要だということは誰の目にも明らかです。特にコロナ禍の間、映画や音楽会、演劇などの芸術家的なものがなくなった時、人を誘い合って外食する楽しみが持てなかった時に、これらが私たちの人生にとって無駄の様に見えながらとても大切なものだということに気付かされたわけです。
コロナを通して、一見無駄なものが実は大事なことなのだと知ったように、AIを通して、私たちが日常生活の場でさりげなくやっているものが、実は複雑怪奇なものの連続だということ知るきっかけになっているのです。AIは私たちの日常生活の繊細な分野にまだまだ入り込めていないのです。お皿洗い一つ満足にできないのです。ましてやそれを拭いて乾かすなどということになると絶望的です。靴磨きも、散髪もです。微細な運動の連続だからです。AIは立派な音楽を作れる様になっているそうです。絵画的にも素晴らしいものができるようになっている様なのですが、書の筆捌きは真似できないのです。音楽は優れた統計的経験で作れるのに、筆捌きは動きに、心つまり意志が伴わないとダメだからです。その時の意志というのはインスピレーションのような直感的な判断です。それは心の中で起こっているのです。
私がここでいう日常とは思考したものの積み重ねではなく、この意志が連続して成り立っているものなのです。AIは意思に近づくことはできるかもしれませんが、意志の世界、直感の世界、心の世界に入り込むことはないと考えるのです。
イヴェントはたくさんの情報から選択しながら計画して楽しむものですが、日常的な意志の連続は計画することで成立しているものではなく、外から偶発的に起こるものに瞬時に応えられる俊敏さが求められているのです。日常というのは極めて非エゴイストなのです。
私の印象から言うと、西洋的なイヴェント的感性にはAIは驚異に映る傾向がある様です。人間とAIわ対立させているからかもしれません。
ところが日本的感性から言えば、AIができることはAIに任せればよく、人間を超えるのは人間だけだという、西洋的観点からは謎のような余裕がある様な気がしてなりません。