知に働かさせるのではなく、情に・・・
知に働けば角がたち、情に竿さば流されるとはまさに的を突いた言葉です。その通りだと思うのですが、夏目漱石の時代からはすでに百年が経とうとしてますし、この百年は目まぐるしい変化のあった時期でもあり、知の質と情の質、そしてお互いの関わりにも変化が生まれていると考えていいのではないのでしょうか。そのあたりを探ってみたいと思います。
夏目漱石以来、私たちにとって知の占める割合は飛躍的に増大し、知一色に染められてしまった感があります。反対に情の方は遠慮がちに表舞台から姿を消してしまいました。今では見渡す限り偏差値が肩で風を切っているあり様です。
その反動なのかもしれません、「ものづくり日本」がいろいろなところで強調されています。ものづくりの質の高さは確かに誇らしくもあり、喜ばしくもありなのですが、それでも情が置き去りにされてしまっているのは情けなく、情を振り返ることがないことはいささか寂しくもあります。
情は流されてしまうと言われる様に、捉えにくいところがあることはわかっています。しかし情は雰囲気なども違い吹けば飛ぶような軽いものではなく、しっかりと存在感のある重いものだと思っています。今はその捉えにくさこそが注目されていい時代だと思うのです。ですから情に関して今はパイオニアの時代かもしれないのです。
情が活躍しているところを探してみましょう。人間関係の場です。人間同士の対話の場です。話し合っているところは人間関係の中で一番密なところと言っていいはずです。
情は目立たない、ごく平凡なところで活躍しているため、私たちはそれが当たり前すぎてほとんど評価できないでいるのです。特に最近の女性を見ると、結婚をして子育てに目処のついたら一日も早く社会復帰を考える訳ですが、家にいて子育てをしている間は社会的には全く評価が得られていないから寂しいのです。社会に出て働いていれば何らかの評価が得られます。
情の働きそのものも知性ほどは認められていないものです。知が第一なのです。情に関しては社会からの評価の対象外だということを理解しておく必要があると思っています。情はしかも主観的な世界に閉じこもっていますから、いい人だとか、やさしいとか、気が効くだとか言う評価の程度で、現象的な面を見て誉めたりしていますが、情の何たるかについては言及することがないのです。結局情を図れる物差しがないからなのですが、情についていう時は各自の都合、主観だけに頼っているのが現状です。
こんな情にどのように付き合うのかというと、情は話し合いの世界に生きていますから、相手の話をよく聞いている時、情は活発に働いていると思います。相手に本気で向かい合い、本気で話を聞くことで、大変なコミュニケーションになっているのです。もしかするとそこで情は成就しているのです。自分のコメントなどは知的な人に任せておけばいいのです。ただひたすら話を聞くことです。相手を受け入れることが情の世界に体にる第一歩だからです。相手を受け入れた時にコミュニケーションが始まるのです。