音楽と言葉

2024年6月11日

音楽と言葉。

このテーマで本や論文を探すと読み切れないほどあることに驚きます。

ムシケというギリシャ語は言葉と音楽が混ざっている状態で、そこから音楽が独立してくるという考え方を、私はゲオルギアーデスというギリシャ系ドイツ人の著名な音楽学者の著書で初めて読みました。とてもインパクトの強い分でした。その影響を受けた人たちだろうと思うのですが、音楽の歴史の本を読むとよく出てくる考え方でした。

基本は言葉から音楽というものが独立したというものなのですが、私は長いことその通りだと思っていましたが、最近は少し違う感じ方をしています。

音楽と言葉はいまだに一つのものと捉えられるのではないかと思っています。

書道を例にとってみます。音楽は書道で言えば楷書の様なものです。しっかりと形を整えなければならないのです。まっすぐだとか、跳ねるところとか、辶の抜くところなどです。誰が見ても正確に書かれているということが楷書の大事なところであり、楷書の美しさなのです。気持ちよく整っている書体です。

言葉の発音というのは、正確ではなく崩れているもので、音楽が正確さを競うとすれば、言葉は正確な発音などいうのはないので、いい加減なところがあると思っています。いい加減というのは出鱈目ということではなく、個性とか、癖の中にあるということです。もちろんある程度はどの人にも共通しているものです。もちろん発音記号などもあって規則化されています。

言葉は行書、とか草書に近いものと言ってみたいのです。何人かのイギリス人に同じ単語を発音してもらうと、予想以上に違います。確かにみんな同じ単語を発音したとはわかるのですが、違いもわかります。でも同じなのです。何だか変なものです。

このおおらかさ、音楽の世界では通じないです。音程はあくまで正しく、リズムはきちっと正しくという訓練をうけるわけで、そこを外してしまうと落第点です。コンクールでは予選も通りません。

でも言葉のこういう曖昧さ、おおらかさは捨て難いものだと思っています。同じように音を使うのにこんなに違うものだというのがとても嬉しいのです。

楷書がいいのか、行書、草書がいいのかということでないように、音楽が正しくて言葉は曖昧で正確さがないというのは違うと思います。

言葉を発音するというのは音楽の音よりも実際には難しいところがあると思います。

オペラの世界では色々な国の人が、色々な言葉のオペラを歌っています。言葉は正確ではないくてもメロディーの音が合っていれば聞けるからです。ところが演劇の世界になると、ドイツの劇団にはよほどでない限り外人はいません。演劇の言葉は外人ではこなせないのです。発音にお国柄の癖が出てしまうのです。ドイツ人のようなアクセントがつけけられないのです。日本語でも同じ様なもので、主役がアメリカアクセントではピントが合わなくなってしまうのです。

言葉のが曖昧でいいと言いながらここでは言葉の力のエネルギー、厳密さが取り沙汰されてしまいます。矛盾です。

でもこういう矛盾があることが、言葉と音楽のことを考えているときに、いろいろな広がりを感じて楽しいのです。

 

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