わび・さび
河井寛次郎に「いのちの窓」と言う本があります。詩集ではなく、エッセイなどでもなく、格言集といえば言えないこともないのでしょうが、河井寛次郎のその時その時の言葉を集めたものです。
その中に「わびとさび」と題された言葉があります。
わびとさび
貧乏の美 片付けられた貧乏
河井寛次郎は柳法悦、バーナード・リーチなどともに民芸運動の中心人物でした。民芸品の中に潜んでいる美を探し求め、沖縄から北海道まで日本中を歩き回った様です。派手な贅沢とか豪華とかいう世界ではない、日常生活の中にこそ美があると信じ、慎ましやかな美を発掘したのでした。
その彼が感じた「わびとさび」は貧乏という概念と結びついていたようなのです。
今世界は豊かになりたくて仕方がない様です。豊かには色々な豊かがありますが、金銭的な豊かさが今は一番人気です。みんなできればベンチャー会社の経営者になってお金持ちになりたいのです。私にわからないのは、そうして稼いだお金を何に使うのだろうと言うことです。お金は「使ってなんぼ」の世界で、貯金通帳などに記載された額イコール金持ちということではないいと思います。お金は稼いだ分使うものなのです。
パトロンとなって芸術文化を支えたのは国王、貴族、成り上がり貴族でした。芸術はいつも支えられて命を繋いできたのです。余ったお金があったからできたと言ってもいいかも知れません。しかし一方て苦しい生活を強いられた民衆がいました。全土の九割の人たちです。
豊かさとはそう言う民衆に支えられていたのです。
貴族たちの所有する贅沢な美と民衆の生活感そのものの美とは何かが違います。
「わびとさび」は貴族の世界でもてはやされた流儀です。貧しい民衆は芸術を嗜む余裕などない生活を強いられていましたから、「わび・さび」は民衆から生まれたものではないのです。
貴族の民衆への憧れでもないはずです。
それなのに、何故河井寛次郎は「わびとさび」を貧乏という概念に結びつけたのでしょう。
この貧乏、謙り、謙遜にも通じているものなのでしょうか。
西洋には主張の美が蔓延していますから、最近日本文化へ意識が向きはじめているのは、高尚な貧しさへの憧れがあるのかもしれません。将来、西洋も主張から謙遜へと移り変わればいいのですが。