センスの日本語訳は

2024年7月24日

私はセンスを大切なものだと考えています。人を見るときはセンスがある人かどうかで見ています。もちろん物事を理解する時には知識や経験だけでなくセンスが必要なのです。

この言葉は辞書を捲るとわかるのですが、うまく説明されることのない言葉です。特殊な言葉の様です。したがって人に説明する時には難儀します。そもそも英語からの外来語ですからいっそうです。ちなみにドイツ語にこの英語のセンスにあたる言葉はなく、日本人以上に苦しんでいます。

若い時にこの言葉を知り、その意味をあのてこのてを使って調べたのですが、私が納得できるものには出会いませんでした。知り合いや先輩に聞いても的を得た答えには出会えませんでした。

センスを理解するにはセンスが必要なんだと自分で納得させてこの年まで生きています。

 

センスは生まれ持ったものだと思います。と言うことは先天的な才能、能力ということなのでしょうが、先天性というだけの説明では物足りないものです。窮屈でしっくり来ません。もっと余裕のある、膨らみを持ったのがセンスの様な気がしています。人生を包み込むような大きなスケールを感じています。

最近気がついたのですが、一芸は道に通じる、とか一芸は万芸に通じるという言い方がありますが、これは私が感じているセンスを理解する時に大いに役立つ様な気がしますので、この辺からセンスに迫ってみたいと思います。

一つの芸を極めると百の芸に通じると言うことです。私は直感的にわかった様な気がしてしまうのですが、少しほぐしてみたいと思います。

一つのことにこだわっていると、専門バカのような言い方をされがちですが、中途半端でなく極めると話は別の様です。別の次元というか別の地平線が見えてくるものです。高みに立ったものにしか知られない景色があるのでしょう。

そこに到達すると自分の芸のことばかりではなく他人の芸についても共感できるものがあるとわかるのです。自分を極めると他人が見えてくると言うことの様です。少しセンスに近づいた様な気がします。

 

センスがあるかないかの違いを一番感じるのは、芸事、芸術、物作りと言った分野ですが、知的に物事を理解すると言うのもセンスがものを言います。自然科学の世界で、数学や物理や天文学を極めた人は異次元の存在に見えます。独特のセンスでその道を極めたからなのでしょう。

センスがあるに越したことはないと思うのですが、今の時代「知的能力」が過大評価されていますから、センスは片隅に置かれています。実は頭がいいと言うこと以上のことが「センス」に恵まれているので大変残念です。頭がいい人は神経質になりがちですが、センスは繊細であっても神経質になる要素はありません。センスは磨いても知性のようにとんがってくるものではなく、一層しなやかになってゆくのです。

 

日本語ではセンスのない人のことをひとまとめにして「音痴」と言います。そもそもは歌うときに音程が取れない人のことを音痴というのですが、方向音痴、味音痴、色音痴、言葉音痴等々なんでも音痴という言い方で済ませています。もしかすると人生音痴というのもあるのかもしれません。

センスの話をするときに一番困ってしまうのは、このセンスはどの様にしたら磨けるのかと言うことです。私の声を例にとると、私の声は近くの人にも少し離れた人にも同じ様に聞こえると言う特徴と、録音が結構難しいと言う特徴が挙げらりれます。静かな柔らかい声ですからいつまでもいていられます。一見眠気が襲ってきそうですが、そんなことはなく決して眠めなんてことにはならないのです。この声も練習のしようがないのです。ちなみに私のライアーもよくにいています。却って練習が仇になります。練習は固めてしまうからです。と言うことは数多の発声法からは得られない特殊なものだと言うことです。たくさんの人から教えてほしいと言うことで声のワークなるものをしてきましたが、それだけでは足りないようで、個人的に教えて欲しいと言われるのですが、教えるものなんかないのです。ですから「声のセンス」を感じてそれを磨いて欲しいですと言っています。

 

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