声の発見 その八
好きな声は沢山あるのでブログに書ききれるかどうか。いつかゆっくり大好きな人の声を書いてみたいです。おそらく濃厚なラブレターになってしまうでしょう。
歌い手、噺家、講談師、俳優、役者と声を仕事にしている人たちには魅力があります。
その人たちの声を聞いていると、本当に「いい声」というのがいい加減なことだというのが解ります。
かすれた声、だみ声が案外人の心をつかみます。
それらの声の魅力がどこにあるのだろうかと突き詰めて行くと、案外共通したものがあり「どこか」に辿り着きます。どこかは曖昧な言い方ですが、それぞれの声は一人一人違うのに、共通しているのはどれも人を引き付けるのです。
このプロセスは声のことを知るにはとても大切なプロセスだと思います。皆さんもぜひ大好きな声を見つけて、その声に愛の告白をしてみてはいかがですか。
人生どこでも同じですが、好きになったものからしか学べないのです。
余談ですが、今子どもたちは学校が嫌いだから勉強ができないのです。教育がどうのこうのと、減らそうな難しい事を並べているより、子どもたちが学校が好きになること、それが一番の早道です。
声の魅力の最大に発揮されるのはすでに書きましたが、歌です。歌っている時の声は、今風の言い方をすると、エネルギーが違います。
歌を上手に歌えば歌う程、エネルギーは減ります。これはとても不思議な現象です。
ですから上手く、上手には絶対に歌わないでください。
歌は舞いに近いもの、そんな感じがします。だから歌っている時は舞っています。
下手糞ほど上手に舞おうとしています。そのわざとらしさは見るに堪えないものです。
歌と舞いがとても近いものだと気がつくと、歌の一番いいところを感じる様になります。
そして歌う時に声が一番張りきっているということもよく解るのです。
歌うと喋るとは、似ているようで随分違うものです。
今日のお話しに関して言うと、歌は時間の流れを持っているということでしょうか。
そうです、歌は時間と共にあります。
また舞うと言うのは踊るのとも違うもので、舞っている時は時間の中をまるで夢を見ている様に動いています。
現代はディスコ的な踊りが若い世代を中心に支流になっていると言っていいと思います。その動きはリズム、ビートに合わせますから、舞いの様に時間の中を泳ぐというよりは、時間を刻むものになります。
時間の中を動くのと、時間を刻むのでは、動きは相当違ったものになります。
泳ぎもオリンピックの競泳となると時間を刻む様なものです。特に50メートル競技の様に距離が短くなればなるほど、動きは激しくなり刻む様な動きです。1500メートル競技も競泳ですが、このくらいの長さになると、競泳ですが泳いでいる選手たちを見ていると、時間の中を泳いでいる感じがしてきます。
現代はあくせく、時間に追われて一日を過ごしますが、のんびりと一日を過ごした後は一日の印象が随分違ったものになります。俗な言い方ですが、豊かです。
生きているという実感も喜びも、のんびりの方から沢山もらえる様に思うのですが・・
せわしく時間に追われた一日は自分が何をしたのか、最後は覚えていなかったりします。
歌とか踊りのときに感じるのんびりと言うのは間延びしているのとは違います。のんびりに見えるようで実は集中しています。しかも凝縮した時間の中を生きています。
のんびり歌う、ゆっくり歌うと言うのは案外現代人は結構苦手としているところです。のんびりが間延びに感じられるからでしょうか。
私に声の本質を教えてくれたアルフレッド・デラーの歌はとてもゆっくりです。デラーはゆっくり歌う天才でした。実は、私のライアー演奏の手本になっている人の一人です。
彼の内は本当にゆっくりです。まねをする人が居るかどう知りませんが、彼の様にゆっくり歌うことは、今の歌い手さんにはできないでしょう。
彼ののんびり、ゆっくりの歌は、間延びではなくて、よく聞くと集中度の高い緊張感に満ちています。間延びしたものだったらすぐに飽きてしまいます。
デラーの歌を、声を聞いていると、穏やかに流れて行く時間を感じます。彼の歌声に身を任すのと同じ様に、彼の歌の流れている時間に身を任せていることがあります。それはとても気持ちのいいものです。そこにはデラーということの人生も感じられます。そんな生き方もあるんだということを教えられます。
噺家さんたちは、「間(ま)」を大事にします。この間は話しそのものが時間の流れを作っていないと生まれないものです。ただ外から計った時間だけ休みを入れるというのとは問題が違います。話しもですが、声が時間の流れの中にないと、間とはいえないのです。それでは隙間です。
声のことを調べていると、私たちは今時間を失ってしまったということが見えて来ます。