感動ということ

2024年10月14日

感動できなくなったら、生きている楽しみは半減するに違いありません。

何に感動するかと言うこと以前に、そもそも感動することができるか出来ないかと言うことです。何も立派なことにだけ感動するのではなく、つまらないこと、他の人が関心を持たない様なものにも感動できる訳ですから、感動は万人が共通に持つ特筆すべき素晴らしい能力だと言えます。

すぐに感動する人もいればそうでない人もいます。条件反射的に感激するのを感動と言っていいのかどうかはさせおいて、どんな人もそれぞれの感動の経験があり、それはその人の生きる力になっているのだと思います。

戦前戦後を通して、婦人解放運動などを通して、社会的に活動された加藤シズエさん(1897-2001)が103歳を迎えた2000年に、三世紀を生きた証人として、あるテレビ局が行ったインタヴューで、「どのようにしてこんなにお元気なのですか」と聞かれると、「一日に七回感動するからです」とお答えになっていらっしゃいました。感動することが命の、元気の源ということの様でした。

感動というのは、感動したと簡単に言ってしまいますが、感動する能力というものがあるので、感動できたと言うのか本当の様な気がします。あることに感動できる自分がいるということです。まずはそのことに喜びを感じなければならないのです。

感動は理屈抜きで起こります。ある場面に接して思わず涙ぐんでしまったなんてことがあると思うのです。そんな時その幅面の持つ意味を深く理解して感動したのではなく、その状況の本質に触れて、理屈抜きにわけもわからずに感動するのです。まさに直感そのものです。滝のように何かが流れ込んでくるのです。ここで涙なんか流しては恥ずかしいなんて言っていられないのです。私たちは感動への抵抗力を持ち合わせていないと言えます。感動は無防備なのです。

感動は私たちの感情生活を揺さぶります。それまでの考え方、感じ方をひっ繰り返されることもあるのです。感動という言葉はドイツ語でBegeisternと言います。霊的なものに満たされるという意味です。まるで何かが乗り移った様でもあります。神懸りと言うことでもある様です。感動というのはよく吟味してみるとこんな不思議なことだったのです。

 

この感動できる能力というのは元々持っているものなのか、あるいは後天的に獲得したものなのかは色々に論議されるものだと思いますが、一つだけ言えるのは、元々あったものだとしても、それを維持したり、さらに磨いたりするには何かをしなければならないと言うことです。

筋肉などとは違うので、こう言うトレーニングしたらどう言う筋肉がつくと言う具合に簡単に説明できないものです。一朝一夕にできるものでもないですから、時間をかける必要があります。教育は今日ではものを教え、覚えることに徹していますが、私は感動できる人間を作るのに最も適した機関だと思っています。教育を考えている人たちにぜひ人間の感動する能力について考えてほしいと思います。

感動の前にまずは一人の人間として、目の前にある世界と出会うことが必要です。世界と出会うなんていうと大袈裟に聞こえますが、自分の周囲を見渡せると言うことです。関心を持つと言うことです。そうした機会を今の教育システムは子ども達に十分与えていないのではないかという疑問を持っています。全くないわけではないのでしょうが、今のままではいつの日か感動が世の中からなくなってしまう様な気がしてならないのです。

感動というのは何も大袈裟なものなくてもいいのです。ほんの些細なことに感動できると言うのはかえって繊細な人間であることの証ですから喜ばしいものです。そう言う人には感動のセンスがそもそも備わっているのでしょう。しかしそれは訓練というか、心がけ次第では後天的にも作られるものの様な気がします。自分の周囲にしっかりと向き合うというのは間違いなく教育の課題です。もちろん資格を取るのもそうしたことの一つなのでしょうが、それ以前にしなければならないことがある様な気がするのです。それは自分が生きている世界、社会を好きになることです。

私は音楽がこよなく好きで、色々な音楽を聴きます。同じ曲をいろいろな演奏で聴くことも好きです。特に演奏家の違いを感じるのが楽しみなのです。「この人は何をこの曲に感じているのだろう」とい具合にです。私のようにしつこく繰り返していると、だんだん演奏の醍醐味というものがわかってきて、恐ろしいことに「この人はこの曲と出会っていないのではないか」と言ったことが感じられる様になります。非常に僭越なことをやっているとは思うのですが、ある演奏からは全然満足感が得れなかったりするのです。解釈だと言ってしまえばそれまでですが、それだけではない様な気がします。音の一つ一つが生きているかどうかではっきりとわかるます。丁寧に演奏すればいいと言うことでもないのです。

音楽にしろ、周囲の世界にしろ、出会うというのは生きてゆく上で大切なものです。出会ったと言うのがどう言う感触かというと、一つになるという感触です。「今自分はこの世界の中に生きているのだ」と言う手応えです。

シュタイナーはこの手応えは「意志から来るもの」と言います。私たちは意志でもって周囲を好きになり、周囲と出会っているのです。理解に先んじで、意志の中に世界との出会いが用意されているのです。

 

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