喋り言葉と方言の違い

2024年10月22日

喋り言葉はすぐに乱れる言葉で、よく年寄りが「今の若いものの言葉はなっていない」とよく言われます。百年も経てば随分と変わってしまっているだろうと想像できます。百年も経てばなんとか理解はできても肌で感じるようには理解できなくなっているものだと想像します。ということは、百年前にしゃべられていた言葉は、同じ日本語でも今とは相当違うものだろうということです。

それに引き換え、同じ喋り言葉という扱いを受ける言葉に方言があります。この方言ですが、百年どころかもっと長い寿命があります。見えないけれどしっかりした枠があるからなのでしょう。

今はラジオ、テレビ、ネットの普及でどこもかしこもが「いわゆる」標準語を喋るようになっていますから、若い人たちは、たとえ津軽地方にしても、年配の人たちのように方言を使う若者は少なくなって、ほとんどが標準語になっています。とはいえアクセントは根強く、単語は標準語でも、標準語しか話せない私のような人間には、どこの出身かがわかってしまうものです。

年配の人たちの中にはアクセントだけでなく、単語も、喋り方、言い回しなどもしっかり方言で喋る人がまだいて、おそらくその人たちの方言は普通の喋り言葉と違って、もしかすると何百年前とほとんど同じではないかと思うほどです。

方言のこの、いい意味での頑固さはどこから来るのかというと、流行という一時的な流れとは正反対の、伝統を守るという深い潜在意識によるものだと思います。もちろん流行する言い回しにもよく似た傾向は見られます。例えば「半端ない」とか「ヤバイ」とか「メガイケメン」という言い方はすくに普及し、若い人たちはその言い方をすることで時代の一員になるという仕組みです。方言も、一族の一員であるという潜在意識に支えられているとは思うのですが、方言は時代に左右されないという特徴があります。この頑固さは実に不思議としか言えないものです。

方言の根強さは日本だけのことではなく、私が知る限りではドイツ、スイスなどにも残っています。特にスイスは方言を大切にしています。中でもドイツ語圏の方言は特筆するものがあります。今でもしっかり地域に定着しているだけでなく、就学までは方言で教育するという方針が公的教育の中でも実践されているほどなのです。もちろん方言は地域性のあるものですから、スイスの中でも方言によっては他の方言の人にはわからないものがあるほどです。一山越えると全く別の方言を喋っていると滋養起用です。それに比べればドイツの方言は百倍くらい薄められているような感じですから、標準語に毒されてしまったと言えるかもしれません。

スイスの場合地理的に険しい山があり、そこには当然深い谷が存在しますから、文化生活はそれによって分断されているからという理由づけもできるのでしょうが、今日のメディアの電波はそんなものを飛び越えて伝達されわけですから、本当の理由は別のところにあるといっていいようです。

私は言葉が頭脳、つまり知性によって毒されていないからだと思っています。感情的というかまだ中世的、あるいはもっというと本能的と言えるものが言葉の中に生きているのだと思うのです。それはヴァイタリティーに富む言葉とも言えるもので、その失われることのない方言の中で子どもが育つというのは、その土地に根を張って生きているということにもつながると思うのです。子どもが必要としている、周りに守られていると感じことでえる安心感は方言によって作られ、それによって方言を守るという意識が生まれ、人々は方言を好んで喋るのだと言えるように思うのです。ここにスイスのような方言が現代文明の流れの中にも根強く残っている理由を見つけられるような気がしてならないのです。

スイスの人たちは自信満々に方言を使います。気持ちの中では標準ドイツ語など使う理由はどこにもない、と言わんばかりです。もちろん時代はグローバルの時代ですから、職業によっては、方言だけでは無理なこともあり、標準語は学校では必須ですが、家に帰ったり、友達と話をする時には、方言なのです。

私は東京で生まれ、育ったので、方言を持っていません。憧れますが、成人してから覚えた方言は本物とは違うものです。私が正確なドイツ語を使えるとしても、それはネイティブなドイツ人からすれは、つまらないお勉強したドイツ語にすぎないようなものです。

方言には根っこがあり、土地の中で育ち、その土地に深く根ざしてゆきますが、普通の喋り言葉にはそうした根っこがないような気がしてならないのです。そのためそこから文化が生まれるということは考えられないようです。百年はおろか、二、三十年で消えてなくなってしまう喋り言葉も随分あるようです。

私は方言のような地域に根を張った言葉に憧れます。

方言はもしかしたら母国語などよりも大切な言葉なのかもしれません。

言葉は文法という規則を確立することによって、長い時代を生き続けることができますが、方言は文法を持たずに何百年と使い続けられるのですから、そこに潜在する力はとても神秘的です。

 

 

 

 

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