文章と詩の言葉

2024年10月22日

今日も言葉のことにこだわってみます。

文章は文法によって支えられていものですが、詩の言葉は違います。

日本の和歌は三十一文字で俳句は十七文字です。万葉などに見られる長歌は定型はないですが五七調で書かれているものです。詩の場合は、詩形と言われるものが散文の文法に相当するようです。イギリスにはソネットという十四行という形があり、ダンテの神曲は一行が十一シルベルで綴られていますから、歌うように言葉が流れます。

言葉を書く時、つまり書き言葉というものには詩文、散文を問わずとりあえず制約があるということです。言葉によって、また時代によって制約の仕方は異なりますが、書き言葉にする時には、自由に思いのままに喋るのとは違ってその制約の中で、つまり不自由の中で精神を活動するのです。私は言葉のレベルが違うと思っています。

フランスには美文を保護する意識が高く、フラン語的名文、理想の文章というようなものがはっきりと示されています。私たちが「最後の授業」として知っているアルフォンス・ドデーという作家の文章はフランで語の名文に数えられているものです。この物語は「月曜物語」という十八世紀のフランスとドイツの戦争の時のことを綴った小説の第一章にあたります。もちろん翻訳されてしまってはフランス語の文章の味わいは消えてしまいますが、フランス語はこう書くのだという意識があるということを知っていただきたくて書いています。同じことはイタリアでもあって、理想的なイタリア語の文章というものをイタリア人もやはり考えています。もちろん英語にもあるものです。

ノーベル文学賞を何年か前に取ったカズオ・イシグロが受賞の何年か前のインタヴューで「今の若いイギリスの作家たちは、英語で美しい文章を書くというよりも、他の言葉に翻訳しやすいような言葉を使う傾向が強い」と指摘して「それは言語としての英語の衰退である」という感想を述べています。彼の受賞作品である「日の名残り」の英語は英語のエッセンスで綴られた凝縮したもので、イギリス人にもある意味難解なものになっているほどと言われるレベルの高い英語です。外国人として読む時には悪戦苦闘を強いられます。

こういう傾向は何も英語だけに限らず、グローバルという世界が一つになったらいいという考えのもとでは、容易に起こりうることで、おそらく日本にもそういう手の作家がいるような気がします。

日本語は理想的な日本語というのがないと言ってもいいのかもしれません。特に翻訳がされるようになり新しい語彙が加わり、西洋語の文体に振り回されることになりと、日本語は今までとは別の言葉として新生する必要があったわけです。しかし地下水のように脈々とながれている日本語、大和言葉のエネルギーは消えていないと思っています。新生してすでに百五十年以上が経ちます。その間のうねりは、二葉亭四迷から始まって今日に至るまで、さまざまな工夫がなされて今に至っています。

日本語の文章を考える趨勢がこれから生まれ、新しい意識のもとで日本語が磨かれてゆくのだろうと楽観しています。日本語には西洋語に見られるような文法がないというのが、どのような利点として活用されるのか楽しみです。

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