のっぺらぼうの反対はなんだろう

2025年2月18日

将棋やチェスはコンピュータに太刀打ちできないそうです。途轍もない量の情報を持っていて、そこからいってを導き出してくるのですから、人間の経験や記憶の枠では測れない量がキープされているのです。
言語の翻訳も日に日に進化しているようです。膨大な量の辞書からの単語の数を記憶させ、文章の用例なども無限にインプットしているのですから、平均的な人間圏以上の言語能力のはずです。ただ言葉は言語能力では使いきれないので、将棋やチェスのように簡単に人間を量がすることはないと思います。
もしかしたら四百冊近くになるシュタイナーの著作、講演録を全部入力したら、AIがその内容を人工知能的に処理して、質問者にシュタイナーならなんと言ったかを答えてくれる日が来るかもしれません。私が知らないだけで既に行われているのかもしれません。
それはそれで興味深いことですが、私は個人的にあまり期待していないので、お世話になることはないと思います。優等生的な、正しいだけの答えは個人的に好きではないからです。つまり一般的に見ればいい答えというのはどこか的外れのような感触があって、私にはそれがたとえ正しいとされても答えではないのです。
答えというのは「質問の中に八割がたある」とよくいわれますが、私もその通りだと思っています。質問者の内的モチーフが含まれていない、事柄だけに対して人工知能のご意見番が物申すでは物足りないです。そこにはいわゆる客観的、合理的なやり取りは成立していても、血の通ったコミュニケーションが成立していないと考えるからです。
現代の大きな特徴は人間味というのがどこかに行ってしまって、物事がのっぺらぼうになってしまっていることです。堀の深いゴツゴツした男の人の顔や、肝っ玉かあさんのような太っ腹のふくよかな女性が世の中から消えてしまったようです。男性はスマートで綺麗になってしまったし、女性はツイーギーのようなスリムが理想的になっているので、ちょっと病的だと感じてしまうのは私だけでしょうか。
健康なというのは現代人の大好きなモットーですが、大抵は健康食品とか、体にいいものという意味で使われます。とても神経質になっているようで、太っ腹で何事にも動じないようなお母さんが作ってくれるホッカホッカの簡単なご飯というイメージはそこにはありません。私にはそっちの方からたくさんエネルギーがもらえそうです。
昔は日本だけでなく世界中でお母さんが子どもの服を縫ったり、編んだりしたものです。それがいつしか買って来ることで済ますようになってしまいました。子供服のブランドまであります。その次の時代の波のなかで今度は家庭で食事を作るという習慣がだんだんと薄れていったようです。今は世界中でよく似たファーストフードを食べて子ども達は大きくなっているのでしょうから、人類はそのうちみんなおんなじように感じ、考え、行動するようになってしまうかもしれません。
二百年前はまだ農民が九割でしたから都会に住む人は一割くらいでした。モーツァルトやベートーヴェンの生きていたウィーンはそんな風でした。今は比率が逆転してしまいました。みんな都会にゆきたがるのです。都会に住みたがるのです。みんな垢抜けだ都会人振りたいのです。
でもそろそろそういう流れが変わり始めるでしょう。一夜にして変わることはないでしょうが、現実は既に都会飽和状態ではないかという気がします。
ネットで買い物することからまた物々交換のようなものが好まれる時代が来るかもしれません。なんだかワクワクします。交換する二人の間で決められた暗黙の値段での取引です。二人で納得すれば損得なしですから万事OKです。同じお買い物でも人間味いっぱいのお買い物です。

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