日常生活という神秘 その三
考えると日常生活はどんな風に関連しているのでしょうか。
人間は考える葦だとか、我思う故に我ありと言われています。
ここに出で来る「考える」、「思う」というのは、西洋で生まれた哲学の中で言われているものだからではなく、私たちが生きているということを支えているものです。
考えるというのは「思考する」などと難しく言われると、特別なことの様に見えますが、本当はもっと身近なもので、日常生活との関連で言うと、人間は考えることで人生が消化できるのです。
食べ物を食べた時に消化しないと、食べたものは栄養にならずにやせ細ってしまい、挙句の果てに病気になってしまいます。もし私たちが考えないで生きたらどうなるかと言うと、何も食べないのとよく似た状態になります。人生を消化していないので、人生から栄養が取れていないので、やせ細った人生ばかりになって、野っぺら棒な人間ばかりになってしまうはずです。
解りにくいかもしれないですが、毎日の生活は消化されないと、人生を肥すことはできないのです。
日常生活、毎日毎日を私たちは消化しているのです。しっかり消化している人は元気です。充実した人生を送っている人は、人生を、毎日をしっかり消化しているから元気なのです。
話しを逆転させてます。
日常生活というのは、実は私たちが思考すること、考えることを助けているものなのです。
毎日の生活があるから人間は考えられるのです。その生活が無かったら、人間は考える場を失います。考えなくなります。考えなくなったら、人間は元気を失います。やせ細ってしまい、挙句の果て本能で生きるだけの動物の様になってしまいます。
考えると日常生活はお互いに補い合っています。
どちらが先かと言ったら、同じ時期に生まれたものかもしれません。いずれにせよ日常生活の中で考える力は鍛えられ、人生を助ける様になったのです。
私たちが日常生活と呼んでいるものは、人間を人間ならしめている「考える」という能力を鍛える場なのです。
考えるというのは船のかじ取りの様なものです。自転車や車のハンドルさばきの様なものです。
歩いている時に向こうから来るものをよけられるのは考えるという能力があるからです。
ここで言っている考えるが机の上で考えるのとは少し違うことは解っていただけると思います。
前から何かが来る様だ、ではどうするか考えよう、と考え始めたら、ぶつかってしまいます。歩きながら考えている人も電信柱にぶつかってしまいます。そんなのんきな考えるのことを言っているのではないのです。瞬間的な考えるのことです。直観です。
それは条件反射とは違います。周囲で起こっている状況はいつも違いますから、条件反射では間に合いません。臨機応変です。
臨機応変な直観だけが日々起こること、瞬時に起こること、刻一刻と変化しているものに対応できるのです。それを考えるというのです。
毎日の生活は刻一刻変化しています。よく似たことはあるかもしれないですが、同じことは繰り返していないと思います。そしてそれはいつも予期しないところから突然やって来ます。それに対応しているから、生きているというのです。
その対応のことを消化するととか考えると言っているのです。
そして生きているというのはそう事柄を消化しているのです。考えているのです。考えているから、消化した分栄養になりますから、元気になります。