朝のまどろみの中で 続き
朝は子どものようだと思う。
朝というのは体はまだ覚めやらずの状態だから、何か肉体的なことをするには全く不向きなのに、思考だけは冴えている。
朝の思考には直感的な、先見的な力があると信じている。
ゲーテはファウストの二部の魔法の様な言葉は午前中にだけ書いているらしい。
シューベルトもあの美しいメロディーを午前中に書きとめている。昼からは散歩に出で、夜は友達と飲んでいる。
ドイツの諺は「朝のひと時は黄金を宿している」と言う。
ちなみに Morgenstunde Gold im Munde という。
ぎらつく太陽のもとでこの思考は朝露のように薄れて行く。
その一方で、社会人思考が頭角してくる。
生きて行くのに必要な辻褄があわされて、大人の様な顔をした思考だ。
これも生きて行くには大事だから付き合うわけだが、これだけが思考だと思っている人に会うと、なんだか情けない。
直感のない思考は活きの悪い魚の様で、味が乏しい。
それはそうなんですがね、と理屈はあっているがどうもそれ以上のことには進展しない。
朝の、あの勢いのある直感は、時には自分の人生を脅かすほどの力を持っていて、そこから勇気をもらうこともある。
理屈で通す思考は自分の人生を守ろうとしているだけなのかもしれない。
なんだかつまらない。
死して生まれよ、大好きな言葉だ。
これはペルシャの詩人の言葉で、ゲーテがそれを西東詩集に収めている。
朝のあの勢いは、この言葉を思い出させる。
新しく生まれ変わって、一日を生きる勇気と力を宿している。
毎日朝が来る。
毎日生まれ変わる勇気が与えられているということだ。
なんだかとてもありがたい。
今日も、一日がその勇気に支えられて過ごされんことを、と祈りながら、朝を心で噛みしめている。