あいさつの神秘

2013年4月23日

 日本滞在中にブログを書くことは今までしませんでした。旅行が多いことが理由の一つですが、実家にいるときに少し時間があっても実家がインネットにつながっていないことがもう一つの理由でした。今日から、めでたくインターネットにつながりました。それによって実家にいる何日かの間に考えをまとめることが出来そうで、これからは日本でもブログを書きます。

今日はその第一弾として挨拶についてです。

 

挨拶と簡単に言いますが民族の間に、また同じ民族の間でも時代によって仕方は異なります。地域、時代とそれぞれの違いは確かにあるのですが、いつ、どこにあっても挨拶は人間社会を生きてきました。過去、そして今も勿論、未来社会が、特にコミュニケーションのあり方から見てどんなに変わろうと、これからも大切なものの筈です。挨拶はさりげない中に深いものがあります。このささやかな儀式の深さはほとんど宗教的と言ってもいい程です。

 

私はすれ違った人にみんな挨拶をしたくなるタイプです。初対面だろうがかまわずに、相手がそれにどう反応するかも考えずに挨拶をします。そんな姿を「知らない人に声なんかかけるものじゃない」といぶかしがる友人もいますが、そっちの方が間違っています。

挨拶は動物社会にはないもので、挨拶を交わしていることが人間社会に生きている証だと考えていますから、みんなが人間のレベルでいるなら、みんな挨拶ができるはずで、それで、みんなに挨拶をしたくなるのです。動物の世界では蟻さんの世界の様にこっつんこをしながらの情報交換があったりしますが、挨拶とは違います。一般的には求愛のときよく似たことが起こりますが、基本的に全く違う意味合いのものです。

 挨拶は民族と言った集団に属するものですが、基本的には個人と個人の出会いから生まれます。

こそ泥さんの話で恐縮ですが、話を聞いたとき「さもありなん」と思わず膝を叩いた程でしたから是非皆さんにもお話ししたいと思います。

ねらった家の近くを歩いていて近所の人に挨拶されると、得体の知れないものが胸にぐさっと突き刺さるよう気がするらしく、お巡りさんとすれ違うのも、パトカーのサイレンの音も厭なものらしいのですが、それよりも近所の人から挨拶されたとき、しかも笑顔で挨拶されたときの感触は、これから自分がやろうとしていることを見透かされているようでたまらないと言うのです。体が震えあがって、一度は泥棒に入る勢いが萎えてしまい決行しなかったこともあったらしいのです。

こそ泥と言う特殊な世界の話しですが、挨拶のもっている不思議な力、挨拶をしているときにお互いの間に行き来しているものがなんなのかを考える機会を与えてくれます。

 

普段さりげなく挨拶を交わします。挨拶というのは意識しないところで人間同士を地なぎます。挨拶によって人と人とはつながっているのです。しかもとても深いところで。たかが挨拶ですが、先ほどのこそ泥は挨拶をされたことでご近所の人とつながってしまったのです。そのことが、逆に恐怖だったということを考え合わすと、この些細なことが人と人との間の心の扉を開く鍵を握っているといっていいのではないか、そんな気がします。

 こちらの心が見透かされていると言う感触にもう少し迫って見たいのです。

あのこそ泥さんは挨拶を返したと思います。そうしないと「変な人ね」と逆に疑われてしまいます。作り笑いをしながらやっとの思いでご近所さんの挨拶に応えた様子が想像できます。こそ泥さんは泥棒に入る手順で頭がいっぱいです。考え事をしているときなど、頭がいっぱいといいますが、実は心がいっぱいなんです。「あそこから入ってどの窓をこじ開け・・」と言う具合に心の中は尋常では無いのです。

心の中で考えていることが挨拶によって見透かされた、とあのこそ泥さんは思いました。こそ泥さんはやっとの思いで挨拶を返したのですが、そのことで相手にこそ泥さんの心のうちが伝わってしまったのでは無いかと思い始めます。ちなみに、ご近所さんの通報でこそ泥がつかまった例は多いそうです。挨拶によってこそ泥さんの心の中が表に出てしまうのでしょう。まるで「これから何々さんのお宅に泥棒に入りに行きます」といっているかの様にです。

いやはや挨拶というのはなかなかの優れものです。

心というのは、挨拶という些細なカラクリでやりとりされているのです。神は小さきものに宿る、と言うことでしょう。

 

挨拶といっても人それぞれです。

しないですませている人も多く見かけます。

また合図のような挨拶ですませている人もいます。

しないですませられるものならしないですませたいと思っている人もいます。

嫌々挨拶をしている人もいます(挨拶された側にはそのときの波動が伝わって来るものです)。

馬鹿丁寧な挨拶をする人もいます。

作り笑いをしながら形式的な挨拶を仰々しくやっている人もいます。

穏やかな挨拶をする方もいます。

さわやかな挨拶もあります。

言葉は少ないのに心に残る挨拶もあります。

目と目が合っただけなのにそれでもう十分挨拶として成立しているようなこともあります。

まだまだあると思いますが、とりあえずはこんな感じです。きっと読者の皆さんもどこかに属しているのではないでしょうか。

自分をどこまでさらけ出せるか、そこに挨拶の中身の多様性がある様で、自分を出せない人は挨拶を渋るという傾向があります。

挨拶がスムースに行かなくなると、首魁生活にひずみが生じます。挨拶が形式化してきます。

それは同時に挨拶の形骸化でもあると見ていいのかも知れません。

挨拶がさびてしまえば、自分の心の扉も、相手の心の扉も、開く鍵が機能しないのです。

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