心にあることをいう
人の話を聞いているときに目を見て聞いてしまい、「そんなに目を見ないで下さい」と言われて困ったことがあります。特に女性の目を見て話しをきいているときに「仲さん女性をそんなに見つめてはいけません」とおしかりを受けることがあります。
一体どこを見て人の話を聞いたらいいのかと聞きたくなります。
勿論目を見てです。目は口ほどにものをいうのです。人の言っていることの中には案外口から出任せだったり、思いつきだったりするものがありますから、要注意です。そんなものに惑わされないためにはやはり目を見て話しを聞くようにしています。そうすると話しの内容がどこまでその人の心から出ているものかが分かります。心からの言葉と言うのは口から出任せとは違ってしっとりしています。しかも聞き手の心の中で長い余韻があります。
「本心からと言う」と言う言い方にはそんなものが含まれているようです。
なぜ心からの言葉が大切かと言うのは、その人の人格や人となり、難しい自我と言ったものはすべて心に根っこを張っているからです。心はそういう場所だと言うことです。心から出てきた言葉は人格的裏付けがあるので信じるに足ると言うことです。
心が貧弱だと、そこに生える根っこも貧弱と言うことになります。根っこが生えないくらい貧弱な心もあります。心が豊かだとそこに生える根っこも豊かで言葉も豊かです。
目は心の窓です。心から発せられている言葉は、目を輝かせます。思いつき程度のことをいっているときには、目はうつろだったり、獲物をねらっているような狡猾な目だったり、計算高い冷たいもので最悪の時は腐った目です。
単なる思いつきと、本当に心のあることの違いは、風に吹かれて舞い上がっている薄い紙と、地に根を張っている大木の違いです。思いつきはコロコロ変わります。昨日言っていることと今日言っていることが違っています。さっきと今でも違うことがあります。その辺は案外本人も気が付かないでいるものです。それは言っていることに根っこがないからです。
思いつき、それは頭脳の産物、頭で考えたことがほとんどです。吹けば飛ぶようなものです。この頭というのかがくせ者で、頭は人格の根っこの生える場所ではなく、思いが通り過ぎる場所です。思いつきを口から出任せに言うのは頭脳犯の仕業です。頭のいい人ほど、知的な人ほど、きっと本人も思いつきに振り回されているのかも知れませんが、頭脳犯なのです。知能犯とも言えるかも知れません。根っこがないのです。人間が頭だけになったら根っこの無い存在になってしまうのでしょう。
心にあるものを話しているというのは、頭脳犯とは違って、コロコロ変わらないものです。同じことを繰り返すわけではないですが、心の中にあってそこで熟しているものは、表面的にはそんなに変化することはなく、いつも安定しています。いつも同じというのは、心に根っこが張っているからだと言えそうです。ある人に会っていつも同じ雰囲気を漂わせているというのは、相手に安心感を与えるものですが、それはその人の発言、行動が心から発しているということです。
心が大事だと言うことは色々な形で言われるのですが、思いというのは心の中で根っこを張っていて、思いつきの様にそのときそのときに都合良く整理されたものとは違うのです。
思考と言うとすぐに頭と言うイメージがありますが、実は心の中での作業です。
思考が頭の中で知的になると知能犯です。整理することが主になり、冷たい、冷ややかな作業になってしまいます。外の枠、たとえば法律だとか、因習だとか言うがっちりした枠に当てはめて、つじつまが合っていることが大切になってしまいます。
思考が心の仕事になると直感です。それは創造ですからでたらめに見えます。ところが無秩序の中から秩序が生まれます。今まで無かった枠の誕生です。わくわくする熱があります。
この二つどちらも必要なものですが、現代社会、どう見ても知的思考の方が優先されていますから、心の思考がそろそろ語られて欲しいものです。思考が創造的行為としては働きはじめて欲しいものです。知的な思考が腰を抜かすような、新しい枠を作って欲しいものです。