言葉と音とライアーと余韻

2011年5月5日

私は言葉にとことん興味があります。

このように書くと外国語のことですかと聞かれてしまいます。

外国語は勿論です。

言葉って何なのかという究極のところにも興味があります。

これは一生の仕事です。

 

コトバは言葉とかきますが、葉となるところは波でもいいような気がします。

言波です。

コトバを聞いていると、その人の、今はやりのこ言い方をすると波動が感じられます。

コトバの意味的な使い方は上手くごまかせても、コトバの波動はごまかせないものです。

ウソは波動で解ります。

 

コトバが心の波動だとすると音楽の音も波動です。

音楽的な音を聞いているとやはりその人の波動を感じるのです。

これは全ての楽器に言えることですがライアーの音というのはそれが一段とはっきりしている様です。

ライアーはとても怖い楽器です。

そう思って弾いてみたら本当に怖い楽器でした。

演奏している人の心がそのまま音になってしまうからです。

音そのものよりも、弾いた音が作る余韻の中で心の波動は音となって聞こえてきます。

ライアーの余韻が曲者だということです。

ライアーの音、余韻はコトバにとてもよく似ています。

ライアーは余韻が命です。

そしてライアーが特別な楽器という印象を持つのはこの余韻を聞く時です。

難しいのは、この余韻を音楽的に取り入れることです。

オタマジャクシだけにとらわれて弾いているとだいたい余韻を殺しています。

余韻を活かすためにはオタマジャクシから解放されなければならないようです。

いい演奏、悪い演奏と言いますが、オタマジャクシを上手く弾いたかではなく、余韻がポイントです。

余韻に波動があるからです。

 

余韻が活かせる演奏は技術を磨くだけではものになりません。

心を磨かなければ、余韻を活かせるようにはならない、そんな風に感じます。

音楽には技術の修行の他に、心の修行も必要だということかもしれません。

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