思考はリズムだった
いつも何かを考えています。
考えないでいる方が難しい、そういう人間のタイプに、どうやら私は属しているようです。
上手く考えられる時と、そうでないときがあります。
ロダンの考える人のように、じっとして、難しい顔をして考えるのは苦手で、どちらかと言えば動きながら、と言うのか、体を動かしながら考える方です。
散歩は思考の流れを作ってくれるので、散歩していると驚くほどの量のことを考えているようです。
特に歩いている時は、周囲の景色も変わったりしますから、刺激も多いからでしょう。
最近気が付いたことは、思考というのは生きものだということです。
昔は思考というのは結晶の様なものだと考えていましたから、我ながら驚いています。
でも注意してください。
体を動かしている時によく考えられるというのと、思考がそもそも動きだというのは、似たことを言っているようで、どうも違うことのようです。
確かに体が動いている方が思考への刺激はあるのですが、もし思考が結晶の様なもので、固まっていたら、動きは邪魔なはずです。
思考は呼吸の様なものです。
あるいは思考そのものが歩いている、そういう感じです。
文章を書いていると、物申したい、という気負いが付きまとっています。
これで書いていると、疲れます。
特別なこととか、目立った事を書かないといけない気分になります。
ジャーナリズムはこういう手の文章が好きです。
新聞など呼んでいると疲れるのは、そこに呼吸する動きがなく、物申したい気負いが勝っているのでしょう。
ぼんやり気を抜くところがなく、センセーショナルなことが、これでもかとばかりに立て続けに書かれていて、休む暇がないのです。
文学の文章とはそこが違います。
言葉のことを考えている時、言葉というのは実に巧みに休みをとりいれているものだと感動したことがあります。
言葉から休みを取ってしまったら、言葉は聞いていられないものになります。
美しい言葉程休みが生きています。
喋る言葉にしても、書く言葉にしてもです。
その休みのところで理解が生まれているようです。
どうぞためしにやってみてください。
大慌てで喋る人の話しは、聞き手が嫌がって、聞いてもらえないのです。
喋るのが苦手な人ほど、人前で話す時には早口になって、機関銃のように続けざまに言いたいことをたたき込んできます。
内容的にはいいことを言っているのに聞いてもらえないのですからもったいない話しです。
思考も同じように、たっぷりとした思考は広々とした空間を持っています。
同じ言葉を使っても、活き活きと伸び伸びと考えられて使われた言葉と、ただ様を足すだけの言葉とはおのずと世界が違います。
呼吸とは言っても深呼吸の様なものではなく、平生のゆっくりと落ち着いた呼吸です。
それは内的な静けさです。
その静けさは、心の強さからもバックアップされています。
安定した心から安定した呼吸が生まれ、そこから思考も活き活きしてきます。
コミュニケーションではこの呼吸の様な思考が聞き手を一番説得させているようです。
これはシュタイナーから教えてもらったことです。
呼吸によって動く脊髄の動きが思考の元だということです。
思考が呼吸のようになると、思考は今までとは違った、もっと精神的なものを考える力がもらえるのではないかと思います。
それは直感に近い思考の様な気がします。
そして、いつまで考えていても、疲れない思考だと思います。