日本の空の下で その一

2011年6月5日

三月十一日、あの大地震の直前に日本を後にして以来の二ヶ月半ぶりの日本です。

その間に世界の価値観は変わってしまいました。

 

ドイツは放射能に対し敏感です。と言うよりもアレルギーをもっています。

今回も、ほとんどの人が、テレビ新聞等で流されている根拠のない情報に振り回されていました。

それに巻き込まれるとこちらがおかしくなるほどでした。

これはドイツの体質です。ですから過去のことではなく、今も刻々と続いています。

これからも続いて行くでしょうからドイツで生きて行く限り私の周りに否が応でも付きまとってくるものです。

 

ドイツにいる間、遠くから日本のことを思っていると、何もできないもどかしさの方が先行していました。

今は、とにかく日本の空の下にいることの安堵感を満喫しています。

 

今回は、いや今回も報道というものの、恐ろしいほどの不思議な力を感じました。

政府の発する情報から個人情報に至るまで、情報源と情報の意図を見極めることの大事さと同時に難しさを痛感しました。

特に数字がもっている威力です。

言葉より数字がものいう時代ということでなんでしょうか。

現代社会は数字依存症ではないかとも思いました。

一体何を意味しているのでしょうか。

ところが、この数字依存現象は今回のことだけでなく、歴史的に視野を広げると、ずいぶん前から情報社会ではたくみに使われていたことが分かります。

特にジャーナリズムが民衆を動かそうとするときです。

戦争の報道をするときに顕著です。

数字が言葉以上のことを語り始める。わかりやすいからということもあると思います。

客観的なにおいもします。

嘘が数字という仮面をかぶって本当のような顔をして社会を闊歩することもあります。

それは錯覚です。

判断力の麻痺化、硬直化と言っていいものだと思っています。

精神の健全さは自由な判断力を求めますから、精神が麻痺してしまったようなものです。

 

つづく

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