時間すなわち心
贅沢な時間を過ごしている時、時間は意識から消えてしまいます。そのことはこのブログの中で何度も繰り返しています。時間を忘れて何かに没頭するということは多くの人が経験しているはずです。
その時間は何処に行ってしまったのかということは今まで触れませんでした。自分でも良く解らなかったからです。
その消えた時間は「心が食べてしまった」と最近考える様になっています。
心の栄養は時間です。心は時間を食べて生きているのです。
時間が無かったら、こんなことを考える人はよっぽどの暇人です。
でもどうなるでしょう。
時間が無いというのは忙しくしていて、何かをする時間が無いというのでは無くて、時間そのものが無かったらということです。普通の生活の中ではこんなことを考えても何の役にも立ちません。こんなことばかり考えていたら、実生活に支障が出てしまいます。私のブロクは、ちょっとだけ実生活から離れて何かを感じたり、普段考えないことを考える人のためのものですから、「もし時間が無かったら」、なんて悠長な事を考えてみるのです。
想像できるのは、全てが凍りついた様な静止の状態でしょう。
昔「時間よ止まれ!」と叫ぶ少年が活躍するテレビ番組がありました。テレビの中で少年がそう言うと、周囲の動きはみんな止まってしまいます。その間に問題を解決するというものでした。
そうです、時間が無かったら、全ては静止した状態のままです。今という凍りついた様な静止した瞬間と、全ての中に溶け込んでいる永遠というものが一緒にあるのです。
そこでは善悪すらも一緒かもしれません。
時間というのは、凍結し、静止した瞬間と、静止したとは言っても生命を持った永遠とをつなぐものです。
その時間と一緒に誕生したものがあります。
人間です。
時間が無かったら、人間がいないのです。
彫刻の様な固まった人間はいるでしょう。
凍りついた様な人間もいるかもしれません。
でも心を持った人間はいないのです。
心です。
時間は、心の一つの姿なのです。
姿とは言っても、時間も心も見えないですが・・。
心が無ければ考えることも、理解するということも、決心することすら無いのです。
一番時間なのは心です。
時間があるから心があるのです。
何かを感じるのは時間の中でと言うことです。
感情があるのです。感情は時間を泳いでいます。
心が何でできているのかということですが、心は時間でできているのです。
だから心は時間を食べていきているのです。