柳兼子さん 歌と時間 その一

2013年6月4日

日本の女性の歌い手さんで繰り返し聞くのは柳兼子さんのレコードとCDです。

知らない人がいると思うのです少し付けたします。1892年のお生まれです。1984年に92歳でお亡くなりになりましたが、85歳までは現役で歌われた方でした。

余談になるのかもしれませんが、民芸運動で有名な柳宋悦の奥さまです。

 

わたしが柳兼子さんの歌を繰り返し聞くのは簡単な理由からです。

柳さんの歌を聞いていると、声に歌に音楽にそして柳さんご自身の人柄に心を感じるからです。心が歌っているという実感がひしひしと伝わって来ます。歌の技量を聞かせる歌い手は多いですが、心を聞かせてくれる歌い手は希少価値です。

私が聞いてる録音はほとんどが70歳を過ぎてからのものですが、声はみずみずしく、歌は心がこもっていて、ただただ引き込まれてしまいます。

十年ほど前に初めて鹿児島で柳兼子さんの歌うシューベルトの魔王を聞いた時、それは移動の車の中のことでした、感動のあまり思わず両膝を叩いて「素晴らしい!」と大きな声をあげてしまいました。隣で運転していた方はびっくりされたのではないかと思います。こんな経験は久しぶりでした。日本の女性の歌を聞いてこれほど感動したのは確実に柳兼子さんが初めてです。

 

柳兼子さんの歌からは時間を感じます。最近の歌い手さんの歌は今ではほとんど聞くことが無くなってしまいましたが、柳さんの歌は何度でも聞けるのです。何度聞いても新しいのです。きっと彼女の歌が音楽が時間そのものだからだと思います。

最近の歌い手さんは、音の長さと音の高さで歌っているのでしょう。そこのところが解ってしまうともう聞かなくても良くなってしまうのです。それに対して柳さんが歌っているのは時間です。時間をを歌っています。音の長さではなく、時間を歌っているので、飽きることが無いのです。

柳さんの様に歌ったら、最近は音大にすら入れないでしょう。しかし歌は心を歌うものであるのなら、歌は時間を歌わなければならないのです。音の長さで辻褄を合せても歌にはならないのです。それでは歌ではなく単なる記号です。

音符は音の長さを計る記号ではなく、時間である音楽を暗示しているだけのものなのです。

音楽は時間そのものです。長いとか短いとかではなく、時間ですから、動きです。それは波の様な動きです。ながさというものでは計れないものが柳さんの歌にはあるのです。歌に時間があり、歌に心があると歌は波の様な動きになります。

 

もう一つの驚きは、柳兼子さんの喋る時の声です。私の「偲ぶ」というレコードには最後に9分程、対談の一部が収録されています。そこで柳さんの喋り声が聞けるのですが、その声は70歳を過ぎた人の声とは思えない程みずみずしい声でした。更にその喋る声と歌われている時の声とは同じものでした。これにも感動しました。当たり前のことを言っている様ですが、歌う時に声の変わる歌い手がほとんどですから、これは奇跡に近いことだと言っていいことです。背骨を通って流れるみずみずしい声は聞いているだけでこちらが元気をもらえます。

 

この対談の中で柳兼子さんは私が尊敬してやまない歌い手の一人、レオ・スレーザークのことに触れて、絶賛していました。明日はスレーザークのことを書こうと思います。

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