世界観としてのライアー その2
次の世代のライアーということを考えるとどうしてもライアーの根本、本質、世界観という難しい言葉が去来するのです。
私の癖なのかもしれないのですが・・
去年から大法螺を吹いていて、「ものを書きたいのです、しかも1000年読まれ続ける様なものをです」、と言っています。
聞いた方は、陰で笑っていらっしゃるのかもしれませんが、とりあえずは「素晴らしいことですね」と共感してくれます。
言い始めた頃は、1000年読まれ続けるとはどういうことなのか、実はあまり意識せずに言っていました。
しかし今になってみると、これは我ながら面白いことだと感じています。
ちなみに、1000年読まれ続けているものを探してみると、宗教書を除いては、源氏物語、千夜一夜物語といったものがあります。
この二つは私がこよなく愛しているもので、時々パラパラとページをめくっています。翻訳も多いので、いろいろな言葉で読める楽しみもあります。
何が書かれているのか、ということで言えば、そんなに立派なことが書かれているわけではないですから1000年読まれ続けるほどのものではないようです。
特に「何が」という所はすぐに文学者の先生方が整理してしまい、きれいに合理的に整理された時点でつまらないものになってしまいます。
1000年を耐え抜いたのは、ものがどのように書かれているのかです。
何がよりも、どう、どのようにが命です。
何が書かれているのかということよりも、どのように書かれているのかということがずっと大事だということで。
文章論、文体論でも整理できないものです。
整理できない、そこに魅力があるから、1000年読み続けられても飽きないのです。
センセーショナルなもので売れた本は、やはり命が短いようです。テーマの面白さでは1000年は耐えられないのです。
文学は言葉の世界ですから、言葉の壁、地域性があるのに、地域性の障害を越えて、生き伸びる力があるのは不思議です。
音楽に目を転じてみます。
音楽は国境をいとも簡単に超えます。言葉が持っている制約の様なものがない筈なのに、実際は言葉ほどの時間的な広がりがないように思います。
言葉は言葉の国境を超える時翻訳という手続きを踏まなければなりません。
もしかするとそこが試金石の様な役割を果たしているのかもしれません。
音楽は感情的、情緒的なものを多く含んでいます。
感情、情緒はすぐに違う文化圏に入って行けます。
それは利点であるのでしょうが、見方を変えれば弱みでもあるような気がします。
音楽がもっと言葉に近づけたらと思っています。
音楽は音楽的なものを超えて、コトバ的になることで、別の命を得られるような気がしているのです。
コトバ的な音楽、それがどういうものなのか、これからゆっくり考えを深めて行きたいと思います。