レオ・スレーザーク 歌と時間 その二
クラシックの歌好きでも最近はレオ・スレーザークなんて知らないという人の方が多いでしょう。
歌を歌う人は一度は聞いてほしい歌い手です。戦前のドイツのテノール歌手です。
心で感じていることを整理して歌唱力で歌う人は沢山います。とても知的な歌です。芸術が学問にとって代わられた現代、そういう歌い方はとても評価されます。
しかし心を歌える歌い手となると、100年に一人くらいしか出てこないのかもしれません。レオ・スレーザークはその人です。しばらく前にチェロのフォイアマンを絶賛した文章を何度かブログに書きましたが彼も100年に一人しか出てこない様な人です。こちらにも目を通してください。2013年1月4日、5日のブログです。
もう一人、やはり100年に一度しか出てこない歌い手がいます。カウンターテナーの現代の復活者アルフレッド・デラーです。この人のことにもいつか触れるつもりです。
今日はテノールのレオ・スレーザークです。
楽譜通りには絶対に歌わないという、現代の音楽常識から言うと、駄目な歌い手でした。
確かに残された録音で聞いてもそれは良く解ります。トスカニーニは激怒し、断ったのですが、しかし後で謝って歌ってもらったそうです。ウィーイフィルの指揮者だったマーラーは、スレーザークをわざわざウィーンにひき抜いてきました。
現代はタクトが音楽をしている時代ですから、音楽はほとんど記号化された音と言ってもいい位なのですが、レオ・スレーザークの歌は記号化できない心を歌っています。
彼の歌を聞いている時は、とても綺麗で丁寧な時間が流れます。きめ細かな時間です。
時間が丁寧にきめ細かに流れるということを彼で知りました。
その時間の中にレオ・スレーザークの心がいきいきとよみがえってくるのです。
心というのは丁寧なきめ細かな時間の中でしか生きられないのだということでしょう。今は時間がとてもがさつに流れていますから、心の病気が多いのでしょう。
大袈裟な言い方かもしれないのですが、その時間はとても神聖です。
レオ・スレーザークがシューベルトの歌を歌う時「ミサをあげる様に歌っている」とエッセイの中で書いているのですが、ここにレオ・スレーザークの一番言いたいことが含まれている様な気がします。
スレーザークのシューベルトは歌であり語りであり祈りです。
これを歌とは言わないという人もいるかもしれませんが、それは歌を誤解しているから言えることで、今日の様な音符通りに歌われる歌はほとんど記号の世界に居るので、音楽に直に触れることが無いので、そういう発言になるのだと思います。楽譜を正確に歌うだけの音楽とは違う世界がスレーザークの歌にはあります。昨日の柳兼子さんの歌も同じです。
スレーザークが歌うシューベルトの「夜と夢」を聞いてみてください。20程の録音されたシューベルトの歌がありますからそれも是非聞いてください。他の作曲家でいうとリヒャルト・シュトラウスの「あした」、シューマンの「くるみの木」です。歌が心だということがすぐにわかります。最高のお手本ではないかと信じています。
心が歌になろうとする時、心はそのために声を選びます。今日的な意味での声楽的な声はその声にはなれない声です。声が粗すぎます。ざらざらしています。声は張り上げたら雑音が混じり過ぎてキメが荒くなってしまいます。そんな声に心は乗ってくれないのです。心を歌うには先ず声を作らなければなりません。限りなく雑音から遠いい声にしなければならないのです。
声をピアニッシモで鍛え、丁寧な流れに変えればいいのです。
声を時間の中を流れる様にしたらいいのです。そうすれば声は息と一つになって、心は声に乗って来てくれます。
声を長さで計ったら、音程で計ったら、心はすぐに逃げてしまいます。そんな声の中で声は生き延びることはできないでしょう。
レオ・スレーザークが歌う時 (私は実際に聞いたことが無いので柳兼子さんが実際に聞かれたスレーザークの声のことをお話ししてくれていたのがとても嬉しいのです)、言葉は命をもらって、意味を伝える道具から、人を幸せにする道具に変わっています。歌がそもそもは人を幸せにするものだということを知りました。
スレーザークは歌い手を止めた後、映画俳優としてコミカルな映像を残しています。その中で歌っているのを見た時、心を歌うのは、パフォーマンスではなく、普段のままでいることからしかできないことだと知りました。
普段のままと言う言い方には誤解を招く恐れがありますから少し補うと、ここでいう普段のままというのは、東洋思想にある中庸と重なります。極端に走るのではなく、ということです。張り切って、がんばって、張り上げて歌うのではなく、普段のままで歌うということです。
普段のまま、これが一番難しいことです。