日本の空へ - 今は今、明日は明日、昨日は昨日

2011年7月25日

今日はシュトゥトガルトの芸術大学の美術の方のオープンデーだった。

芸術的に美しいものに出会えるかもしれない、と期待を持って出かけた。

そんな期待はキャンパスに一歩足を運んだ所から間違いだったことに気が付いた。

私の幻想にとらわれているある一つの時代は終わって、別の時代の中に今は居る。

ほとんどの作品が、汚いものを理屈で包んで人に見せる事に終始していた。

私には汚いものより理屈の方が重苦しかった。

説明されてそれで解ったつもりにさせられるのは、もう芸術の世界ではなく、学問に毒されて過去を向いている。

神様を説明して神様のことが解ったつもりにさせる神学とよく似ている。

そこには神様はいないように、説明は芸術の命には触れていない。

無口な職人賛の姿が懐かしく思われた。

無言で、黙々と制作に励む職人さんに、私は宇宙と共同作業をしている人の姿を感じている。

説明芸術家たちはどこかひなびた花の様にすら見えた。

憐れみすら感じてしまった。

なぜか。

一見奇抜なことをしながら実際には後ろを向いているのが説明芸術だろう。

未来を向いていたら言葉は無い。

未来は説明できない。

未来というのは、人間が未来の中に溶け込んでしまう時にしか現実ではないからだ。

 

突然ノルウェーの悲劇の事を引っ張りだすが、許していただきたい。

今の社会は説明されすぎている社会だ。

説明されたことを正しいとして、それ以外を狂気と片づけて澄まし顔をしている社会だ。

全てが上手にマネージメントされてしまって、整理が付いてしまって、説明されてしまって、それでよしとする社会の風潮がある。

しかしそういう単純な考え方は、説明できない余分な部分、無駄な部分、端数の部分があることをすっかり忘れている。

反動が必ずあるはずだ、と考えたい。

 

再び芸術のこと。

芸術にデザインが随分入りこんでいたような気がする。

デザインは思考という説明の根源的な力の産物だから、芸術が思考の産物になった様な気がしてならない。

それでは芸術が何のためにあるのかが解らなくなってしまう。

私はシュタイナーで読んだことのある、思考が心に降りて来るようになってほしい、という一節が好きで座右の銘にしている。

心で考えるようになれば、説明を必要としない理解の仕方が生まれると言いたいのだろう。

それがどういうものか、言葉にはできないが、人間が未来を向くようになることでそういうことが可能なような気がしている。

未来を向く。

未来は説明できない、ということではないのだろうか。

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