続・バランスそれは中庸であり自我
バランスのことを続けてみます。
西洋と東洋のバランスのとり方の違いを考えなければと、先日のブログの後悶々としました。
西洋はコントラストの中からバランスを考えると言ってみます。
コントラストcontrastのコントラcontraは反対すると言うことです。そこから対立関係と言う得意技が生まれます。対立は昂じると戦いです。西洋社会は押し並べてディスカッションが好きですが、昂じるとdebat(それは打ち負かすと言うことから生じています)ということにまで発展してしまいます。
それではバランスとはいえないのではないか。本当はどちらかが勝ったと言うにすぎない、もしかしたら仮の姿ではないかそんな気さえします。ゲーテはそこの辺りを見抜いていたのかもしれません。ディスカッションでは無く、話し合う、Gespächkの方を尊重していますから、西洋的ではないところから物事を見ています。東洋的と言うのではなく、西洋に潜むコントラの姿勢を超えた人という印象があります(昨年の今頃にゲーテとハイドンと題して、ブログに揚げています。読んでみてください2012.6.16)。
東洋がバランスを考えるときは全く違って、二つの融合です。反対するのではなく賛成するのが基本です。対立では無く、融合ですからは溶けると言うことですから、溶けて一つになることでバランスを取ると言う全く外からは見えない方法といえます。
東洋のバランスは二つの力を肯定するところから生まれます。
このバランスは武道によくあらわれていて、武道の世界にいつどの様にして勝ち負けが登場するのか詳しくは解りませんが、もともとは勝ち負けが競われるものではなかったはずです。二つの力の融合から生まれるバランスに焦点が定められ、それを美と捉えていたのではないのでしょうか。
柔道は1930年代に西洋舞台に登場します。そのことについて賛否両論ですが、ここではただ武道としての融合精神の柔道から対立精神の格闘競技になっている所に、西洋的東洋的な違いを見ることができると指摘しておきます。勝ち負けを決めるための規則ばかりが増え、その規則に従って練習が重ねられるのでしょうが、それは武道の精神とは別の話しです。相手を打ち負かすためでは無く、相手の力と一つになりそこから生まれるものが美に値するものかどうかが問われていたのではないか、そう考えてみたいのです。
日本人にはノーと言わない悪い癖があります。これが日本人の外交下手につながっているわけですが、ノーと言わないことは確かに欠点ですが、それより大きな欠点は外交に携わる政治家たちが相手を知らなさすぎると言うことではないのでしょうか。選挙の票集めで勝利しただけでは世界の外交に携わることはできません。己を知り敵を知りと言う孫子の兵法が思いだされます。
ノーでは無くイエスからのバランスが望まれているのかもしれません。
ノーはとても割り切れていて明確ですが、イエスはとても複雑で、曖昧なところがあります。バランスとは辻褄が合うと言うこととは別のことのはずです。融合のバランスがバランスが求めているものの様な気がしてならないのです。
これからもバランスの問題には折りに触れ述べて行きたいと考えています。