生まれ変わった高貴な時間

2013年6月13日

何もすることがない退屈な人なんて本当にいるのだろうか。想像がつかないのです。

そういう人もいるとして話しをすすめます。

何もすることがないと言う感覚が今一つ解らないのですが、本当に何もすることがないのでしょう。

 そういうことにしておきます。

 

ないわけはないので、ないと言うのはおかしな話だと思うのです。

見つからないと言うことでしょうか。

そうするとないのではなく、見つからない、もっと言うと「見つけたくない」、ということの様な気がします。

世の中と関わりたくないと言うのが本音かもしれません。

 

自分のことはどうなのでしょうか。

一人で生活していたとして、食事はどうするのでしよう。身の回りのこと、お風呂、洗濯、掃除と自分の生活空間にはいろいろなことがありますが、それも放ったらかしということでしようか。退屈な人の日常生活を見てみたいものです。

 

退屈というのは、きっと時間をもて余しているのです。

持て余す時間があると言うのは、時間を使いこなしていないと言うことです。

あるいは時間を満たしていないということと考えてもいいのかもしれません。

乗馬のときに馬の扱いと手綱を使いこなさないと大変なことになります。

馬を持て余してしまったら、大変で済めば好いですが、大けがのもとです。

 

時間は僕らにかかわり無く流れるのですから、こちらが何もしなくとも時間はどんどん流れて行ってしまいます。

それだけでなく、時間は案外近いところにもいるのです。

こちらから働きかけると時間は変わります。外を流れている時間と、自分とが関わりを持ち始めるのです。

新しい時間が生まれます。

何もしないでぼんやり過ごす二時間と、ライアーを弾いた二時間は、他の人が見たら、もっと言うとストップウォツチで測れば「二時間ライアーを弾いていましたね」と同じ二時間ですが、弾いていた本人にとってのその二時間は、何もしないでボーッとしていた二時間とは何かが違うのです。

 

時間が有効に使われたという言い方はあまり上等な言い方ではないと思います。教育関係の人たちは言いそうですから気を付けてください。

外を流れる時間はみんなと共通のものですが、もう一つの時間、ここでは内なる時間と言っておきますが、それは個人のものですから他の人にとやかく言われる筋合いのものではないのです。「有効な時間をすごされましたね」などというのは他人の内側に干渉しているだけです。

 

ライアーやピアノやヴァイオリンを弾いたり歌を歌ってて過ごした時間、絵を書いて過ごした時間、友達と喋った時間、庭仕事をした時間、料理をしていた時間、日曜大工をした時間、散歩した時間、山歩きをした時間、考え事をしていた時間と何でもいいのですが、私たちは時間を使ったと言うのではなく、時間を人格化した、人間化した、意味のあるものにした、という風に考えてみてはどうかと提唱したいのです。

時計で計れば同じ時間ですが、違うのです。

先ほど、内なる時間と言いましたが、正確には内面化された時間です。

こうした時間の使い方は動物にはできません。動物には自然界の中の時間があるだけで、人間の様に内面化される時間は無くて、いつも自然の一部として生きています。動物には退屈が無いのです。いつも自然の法則に満たされて生きているからです。

時間を内面化できると言うのは人間の特権です。

 

ここで言う「人間」が何かということですが、それは内面化する能力です。

太い丸太が材木店に転がっていたとします。それだけでは「たかが丸太の材木」ですが、そこに彫刻のできる人が来て仏様を彫ったとします。仏像でなくてもよくて、そこからテーブルをつくる人だっています。オブジェの様な抽象的なモチーフのものが生まれることもあります。

いずれにしろ、その丸太がただの丸太ではなくなったのです。ここが大事です。

材質を調べればそれは仏像であろうと、テーブルであろうと、オブジェであろうと丸太と何ら変わりのないものなのでが、何かが違うのです。

 

時間もよく似ていて、何かした時間と何もしない時間とは時計で測れば同じ二時間なのですが、何かした時間は人格化されたとは言っても、誰がそれを証明するのか、そしてその時間はどうなるのか。

よく彫られた仏像、できの好いテーブルは高く売れます。しかしその時間は売り物にはなりにくいものです。

 

家の壁を塗り変えようとして、普通は誰がやっても十時間はかかるところを、ある職人さんは五時間でやりますと言ったとします。塗り替えるための費用は十五万円だとすれば、五時間でやる職人さんの方が自給がよいと言うことで、時間を高く売ることができるとも言えます。

腕のある職人さんがする仕事は傍から見ていて簡単そうに見えて、しかも手早いです。慣れない人の仕事は下手で危なっかしいく、しかも時間がかかります。

手早いと言うのは、時間の濃度が濃いと言うことです。

熟練した人の時間は、耳慣れない言い方ですが、内面化が濃いと言うことです。

何が内面化を手伝ったのかと言うと修行です。

積み重ねられた時間です。が、只時間をかければいいのかと言うと、何年やっても下手な人は下手だったりしますからそれだけでは片付かない問題ではありますが。

身も蓋もない言い方をしますが、才能、能力ということでしょう。

 

人間の中には内面化する能力をみんな持っています。その能力のでき具合は人それぞれですが、能力としては備わっています。それをシュタイナーは自我と呼んでいます。

自我はいつも外の世界を内面化しているのです。それだけです。

私たちが自分を自分と感じることか゛出来るのは、自我が内面化した部分を見てそう言っているだけのことなのです。

内面化というのは哲学的な臭いが強いので別の言葉で言いたいと思います。

気品、品性と言う言葉を今思いつきました。

自我によって変わったものはとても高貴なものなのです。

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