思春期 その二

2013年6月22日

思春期をした人しなかった人は何が違うのでしょうか。その辺り何かありそうです。

思春期というのは徹頭徹尾個人の問題です。もちろん思春期と呼ばれている時期はみんな通ります。それは年齢的に見れば14歳から20歳くらいの時期ですから、「そんな時期を私も生きていました」ということになりますが、それだけでは思春期を生きたことにはなりません。外から見けば体には変化があって、男性・女性になったとしても、心は自分で自分のために何かをしない限り、それまでと同じ状態だからです。

問題はその「何か」が「何なの」かということです。

思春期を嫉風怒濤と言いますが、もとはドイツ語からの翻訳で、吹き荒れる嵐の中の船に例えています。突然風が吹き、波がうねり始めます。そんな海上に浮かぶ船でしょう。海に出ないで港に停泊して風がやむのを待つこともできます。自分の力で乗り越えないで大人になった人は、ゲーテが言う、「地上のお客さん」で人生を終ってしまうかもしれません。

御勉強ができ、成績優秀だとよい思春期になるなんてことはありません。思春期は別物です。御勉強ができる人にコンプレックスがあるわけではありませんが、思春期をしっかりと乗り越えないと、成績優秀でも、何時まで経っても子どもを引きづることになります。思春期に関しては、成績の優劣はあまり関係が無い様です。それ以上に、自分にどれだけ向かい合ったか、それだけが思春期を語る時の規準です。

自分のことで精いっぱいですから、この時期は結構憂鬱的な暗い時期です。

 

思春期は個人の問題だと言うことは一人一人その時期に必要な心の栄養が違ってきます。それを親が見つけて、見つけたつもりになって子どもに与えても、それが子どもの栄養になっているとは限らないのです。親が強い場合子どもは親のいいなりになって親が見つけてきたことをやって思春期らしい体裁を整えることもあります。しかしそれでは思春期をやったことにはならないので心の成長はなく、親の言うがままでいれば何時まで経っても子どものままです。あるいはそれ以上に母親依存症、マザコンかもしれません。

 

草花の中には、放っておいても育つ花もあれば、却って忘れられている方が花をよくつけるものもあれば、外から強く踏みつけられないと芽を出さない種ものもあれば、日向でよく咲く花ものもあれば、日陰がいいものもあれば、人知れず咲く花もあれば、これ見よがしに咲く花もあります。この場所にこの花が好いと思って植えても、そこには芽を出さないで、忘れていると次の年に別のところで花を付けていることがあります。植物は自分に相応しい場所を自分で探してそこに根を張ります。

 

何が思春期にいいのか、海外を体験させることとか、社会福祉の現場を体験するとか、そんなことを子どもにさせようとしていますと言う親御さんがいますが、それも悪いものではないでしょうが、みんなにいいわけではないので、それに向く人にはどうぞということになります。松下幸之助を習って丁稚奉公が好いかも知れません。いずれにしても自分発見が伴わないものは社会の辻褄を合せるのが上手になるだけです。

社会と辻褄を合わせられないところで自分発見があります。あるいは社会の歯車と自分の歯車とがどうも巧くかみ合わない、だからそこにもう一つ新しい歯車を組み入れると言う作業が思春期の仕事です。ですから先達の思春期は参考にできても、それを真似しても何もならないと言うことです。一人一人が自分に必要な小さな歯車を見つけなければならないのです。

 

とにかくこの時期に心の中に忍び込んでくる、自我と呼ばれたり、自己、私、自分とよばれるものが、決定的な働きをしています。順風から疾風です。今までの、子どもの生き方をさせない何かが、この新しい心の訪問者にはあります。ここではこの訪問者を自我と呼んでおきますが、自我は人間を根底からゆすぶり、それまでの生き方を一瞬にして肯定と否定の矛盾の渦の中に放りこんでしまいます。

思春期の子どもを見て、周囲は「なにを考えているのか解らない」と言いますが、解らないで苦しんでいるのは矛盾だられになってしまった本人です。新しく心に住みついた自我は否定と肯定と両面を持つ怪物ですから、今までの順風に慣れた自分は振り回されてしまい、居場所を失い、途方にくれます。自我の強烈な否定の力に始めは刃が立ちませんが、自我は肯定の力でもあるので、そんな惨めな自分もいつか肯定できるようになって行きます。

自己中心は自分に向かい合わずに、自分も周囲も解らないまま思春期を素通りした人の特徴です。

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