思春期 その四
思春期は善いと悪い、肯定と否定、やるやらない、好き嫌いの狭間にあるので、柱時計の振子の様に二つの間を揺れ動きます。
外から見るとこの揺れが思春期そのものに見えるのですが、揺れることだけが思春期の本意ではなく、揺れの中に静止状態を見つけようとしていることも思春期ですから、そこのところも考えなければならないところです。
教育的には揺れていることを責めないことと、静止状態が最後は人間を支えているのだと言うことを踏まえなければならないと思います。
健全な揺れです。心を活性化しているのです。心のダイナミズムにとっては必要な揺さぶりです。ですからこの時期の振り子の動きを周囲から止められてしまっては、心の成長も精神的成長も停止してしまいます。
揺れながら学ぶのです。自己矛盾をです。内的なアクロバットです。本人もひやひやしているかもしれません。それに振り子が、肯定の方に居る時に、否定する自分の姿を反対側に見ていることになります。否定の方に居る時には肯定している自分が反対側に見えます。今までは感じたことのないスリルです。両方とも自分なのです。自分が分裂して見えるのです。自分自身にも辻褄が合わず、これではめいってしまいます。しかもウソとホントウが同居しているのです。
思春期はみんな多かれ少なかれ分裂気味で、しかもニヒリスト、虚無主義者なのかも知れません。そう考えられると思春期の暗さが当然のものに見え、彼らの生きている状況を少しは理解できます。ありがたいことに、思春期は成長期なので、思春期特有の振子的なものは自然と次の成長課題の中に溶けてしまいます。その一方で思春期に目覚めた人生への疑問はその後の人生の中でいろいろな時に思いだされるものですし、その後の人生の中でもその人を刺激しているものです。
思春期前夜も興味津津です。あることが引き金になって、一夜にして思春期に突入することもあります。親子喧嘩が原因でそれまで心の中にたまっていたものが一気に噴き出してしまい、家を飛びだして、友達のところに居候してもらってしばらく過ごして、ほとぼりが覚めた頃帰ってきたりします。ばつが悪いのはお互いさまなのですが、そんな時に家庭の力を感じます。家庭は偉大なものでそんな気まずさを大きく包んでしまいます。
好き嫌いは能力ですから、生まれた時から備わっています。幼児期は親の好き嫌いに影響されていますが、実は小学校に入った頃にすでに好き嫌い、善い悪いと 言う様な二つの極を心の中に感じ始めていたのです。それはそよ風の様なもので、子どもを大きく振り回す程ではなかったのですが、思春期に入るとその振子は自動的に、成長の流れですから自動的にです、スイッチが入って、揺れ始めます。
ただ思春期は何か異質です。その激しさにあっても、また内容的なことに関しても、今までの単なる好き嫌いをはるかに凌駕しています。思春期に訪れる好き嫌いは、その人のその後の人生を動かす程のものだと言う風に言ってみたいのです。その好き嫌いにはその後の人生の礎が感じられます。