味のある人
清少納言によると夏は夜がいいらしい、しかも月が出ている夜がいいらしい。蛍が飛び交う様、そして雨が降ってもそれはそれでよし、と言うことです。
最近私も夏の夜を堪能しました。
今年は寒い春が長く続いて蛍の幼虫の成長が遅れたのでしょう、見られませんでしたが、日が落ちてからの夏に味わう涼しさは格別で他の季節では味わえない独特のものがあります。外に出て夜を衣に火を焚いて、燃える炎に思いを寄せてしばしの時を過ごしました。それは贅沢の一つに数えてもいいと思うほど豊かな時の過ごし方だと、思い出す度に心の中に温かいものが流れます。
清少納言の四季への思いは、春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて、となっています。つとめてというのは早朝のことです。おつとめというのは人がまだ起きていない早朝から起きてするものと言う意味だそうです。冬が来たら・・、と今は楽しみにしていますが、どうなりますやら。
四季を感じることがだんだん少なくなっていますが、一方ではそんな悠長なことを言う時代は過ぎて、現代はそんなことにはかまっていられない時代なのだと思っている人もいる様です。贅沢な時間の推移は人間と言う生きものがもともと望んでいるものの様な気がするのですが、そんなのは古い人間の情緒におぼれた感性に過ぎないのでしょうか。
ここ一年、時間のことを気にする様になっていて、いろいろと思いを巡らせているうちに、時間の中の力が人間の生きていることを支えているのではないかと言う結論に達しました。とは言っても今はまだ一人で「そんなんだ」と納得している段階ですが。
現代人は正確な時間を持っていることを誇りにしているのでしょうが、それは時間のほんの一部のことにしか過ぎず、時間にはもっと大切なことがあることに気が付いたのです。
時間は流れているということです。その流れの中で成熟があるということです。
人間の成長も時間の中で進行します。いろいろな成長過程があり、それぞれの成長には相応しい時間があり、今の様に何でも早くという機運の中では、時間をかけて成長が熟すまで待つのは時間の無駄ということで片付けられてしまうこともあります。
リンゴ園を経営している人が、早く実が熟すための薬を木に注射すると、形はそれなりのものになりますが、味が付いてきません、と言っていました。しかもそれはリンゴにとってストレスになっている様で、それを繰り返すと木が弱ってしまいます、とも言っておられました。
味のある人が少なくなっている様な気がするのですが、単に気のせいだけではないのかもしれません。